2013年8月26日月曜日

今学んでいるビジネスについて

ビジネスにおける交渉術やチームにおけるリーダーシップ、マナー、組織運営、ドラッカー等の本を読みまくり、勉強不足のためにうまく行動がとれなかったと深く後悔致しました。迷惑をかけた方に、深くお詫びします。

美術に親しんだことも一因かもしれないですが、創造的なものこそが素晴らしいって考えを基準に今まで考えていたところがあり、あらゆるものにそうした価値観を押し付けていたような気がします。確かにそうした価値って、時に必要になるけれども、いつもそのようになるとは限らず。とりあえず、驕り高ぶらないこと。自分を絶対に考えないこと。ひょっとすると、自分が間違っているかもしれないし、勿論相手が間違っているかもしれないし、本当に客観的に測るって人間関係ではありえないのだから。常に謙虚にいたいものです。

2013年8月17日土曜日

夏やっていること

最近、ヨガ・瞑想・漢方薬・料理・筋トレ・エアロビクス・発声・呼吸法・ストレッチングを学び・実践しています。来週からずっとやりたかったフルートに手を付けてみるつもりです。合わないならすぐ手を引込めます。

東洋医療って、西洋医療とは発想が全然違って面白い。一般に○○ならこの薬っていうのが西洋医療に対して、東洋医療においては気や血といったものを陽と陰の関係から、薬草等を決めていく。同じ薬草でも、体形や年齢によって処方する漢方薬も異なるそうです。他にも気や血の流れをよくするためにヨガを行ったり。呼吸法についても、奥深く、劇団四季で用いられている練習法とか色々と調べてみた。あと、吹く楽器をしたら、肺が強くなるそう。

とにかく目標は、1.喘息を完治させる。2.総人らしさ追求

2013年8月15日木曜日

日本のお墓事情

今日は大谷本廟に納骨のため行ってきました。大谷本廟といえば、浄土真宗の開祖親鸞聖人を祀っているところです。他力本願、南無阿弥陀仏。ところで、納骨の前の儀式?の簡素さに少し違和感を覚えました。普通、畳の上で正座して、手を合わせるものであろうと思っていたのにも関わらず、まさかの椅子。そして、クーラーが効きすぎ。こんな中で祈りを捧げるのっておかしくないでしょうか。

他にも今までお寺のお坊さんはこの人みたいに決まっていて、そのお坊さんとの付き合いを云々としていましたが、多分こういうことはこれから少なくなるでしょう。他にも家に仏壇を置くこともなくなるでしょう。すべてが形式的なものになるのではないかなぁと思ったりします。

もうあの日から3年、時間が過ぎるのは早いです。頂いた言葉を思い出しつつこれから踏ん張っていかねば。可能性がある限り必ず勝つ!

2013年8月9日金曜日

内向型人間と外向型人間について

今日は内向型人間と外向型人間について、書こうと思います。内向型人間と外向型人間ってなんなのだと思われる方もいるかもしれませんね。内向(introvert)と外向(extrovert)という言葉は、スイスの精神科医・心理学者であったカール・グスタフ・ユングが初めて使った概念です。彼はユング心理学という心理学を用いて、「タイプ論」などで人間の傾向について詳述しています。

ところで皆さんは、内向型と外向型と聞いたときに何を思い浮かべますか?

内向型の特徴としては、

・関心が内に向かい主観的
・孤独で外部の世界から身を守る。
・自分の考えを表現するのが下手。
・自信が弱い。
・他人に無干渉。
・他人がいると仕事ができない。
・仕事を引き受ける前に責任を感じる。
・存在感が強い。
・意外に頑固。

などあげるときりがないですが、大きく言うと内向きなイメージです。

一方で外向型の特徴としては、
・関心が外に向かい客観的。
・社交的で自分の殻に閉じこもらない。
・自己表現が得意。
・自信が強い。
・他人に自分と同じ行動を要求しがち。
・他人といたほうが仕事ができる。
・責任を第二にしてもチャンスは逃さない。
・意外に存在感が薄い。
・周りに流されやすい。

など、社交的なイメージでしょうか。

ここからわかるように、内向型人間と外向型人間は対称的な性格の持ち主であることが分かると思います。勿論、人間ですから、「お前は内向型人間だ」っていう風にぶった切ることは出来ません。あくまで、傾向の話ですから、人間である以上、どちらかしか持っていないということはないでしょう。ただ、自分はこちらに近いかなというものが見えるだけのように感じます。

ただし、必ずしもこの傾向に当てはまるとは限りません。内向と外向を分ける大きな違いは、自分の中の精神的なエネルギーであるリビドーが自分に向かっているか、外に向かっているかです。そのため、一見内向的に見える人でも、他人のことをすごく気にしているならば、外向型ということが出来ます。


さて、私たちの社会はどちらの為に作られているでしょうか?
おそらく、社会的に理想視されているのは後者ではないでしょうか?

例えば、学校を考えてみましょう。学校の先生は生徒に対して挨拶することを求めます。体育の時間にはしっかりと声を掛け合って、チームワークをうまく形成できる子が高く評価されます。就職活動においても同様でしょう。面接のときには、人とうまくコミュニケーションをとれる社交的な人間の方が、そうでない人間よりも評価が高くなります。

要するに、私たちの社会では外向型人間の為に作られているといっても過言ではないでしょう。子供の時から外向型であることを親は子供に強く要求して、私たちは外向型人間至上主義の価値観の中で生きていかざるをえません。もしも、自分の子供が友達とうまく遊べていなければ、うちの子は大丈夫なのだろうかと親は心配します。そして、そうした子供たちに対して、強く仲間に入ることを求めます。

でも、これは内向型の傾向を持っている人にとっては大変な苦痛です。無理やり他者に合わせようというのは本当に難しいです。

私自身、どちらかというと内向的であるとは思うのですが、子供の時から、この性格から色んな人から色んなことを言われてきました。「もっと他人に対して愛想よく振る舞いなさい」とか、「黙ってばっかりいるのはやめなさい。」など。他にも、会話にうまく入るのが得意ではなかった私にとって、学校は少し苦痛でした。これだとダメなんだと知らぬ間に洗脳(笑)されて、私自身色々と変えてきた。無理やり演じるといいますか、無理やり社交的な自分を作り出してきました。

こうやって、無理に捻じ曲げてきたわけでありますが、曲げたら曲げたで、また新たな問題が生じます。どういうことかと言いますと、軽んじられる。

よくしゃべる人って、おそらくこのようにとらえられちゃうのではないでしょうか?余りにべらべらと喋ってしまうとどうしても、ボロが出てしまいます。話が長くなればなるほど論理に矛盾が生じやすくなったりしてしまいます。軽んじられやすくなる。

その反面、あまり喋らなければ、物腰が良いとか、落ち着きがあると言われます。また、一つの言葉に重みが出ます。もちろん、こういう人たちは、あまり議論に参加していないとも受け入れられてしまいかねないので、そうした点で批判を受けてしまうかもしれません。

要はどちらであれ、いいところがあり、悪いところもある。無理やり外向的な性格を押し付けたからと言って、本当にずっとプラスになりえないわけです。

社会全体がそうした内向型の人たちを追いやっているように思えるので、今後少しでも、そうした内向的な人たちの性格も大切にしないとダメだよって雰囲気を作り出さないといけないのではないかと思います。









2013年8月3日土曜日

自分の『鳥かご』から飛び立ちなさい

英語のプレゼンの授業でお世話になった教授から、今日の夕方1冊の本を頂き、今完読しました。久しぶりに、こんな短時間で1冊を読み終えた気がします。この本を読んで、新たにしようか迷っていたことを実践しようと思えました

その本は『自分の小さな「鳥かご」から飛び立ちなさい』(河合江理子著、ダイヤモンド社、2013)という本です。著者は、ハーバードを出た後、マッキンゼーやINSERD、OECDなどで働かれ、この本はその海外で働かれた経験、またプレゼンや英語の勉強の仕方、交渉術など様々な観点から書かれていて、勉強になります。是非買われて読んでみてください!


アメリカ人にとっては、とにかく何でもいいから喋れみたいな、それで認められようとする社会だそうです。でも、よく聞くと、聞き方の言い回しを変えたり、本質的なことでなくても質問するそうです。日本だったら、そうした的外れなことを言ってはいけない雰囲気になっていて、逆にあまり発言しない。でも、それだとアメリカでは認められないって。時に疑問に思います。よくしゃべる人が本当にいいのか、あまり喋らない方がいいのか。Susan CainのThe Power of Introverts in a World that can't stop talkingという本によると、時と場合による。あまり喋らないようなグループならその時のリーダーはお喋りの人がよくて、グループがお喋りばっかりの時は内向的な人の方がリーダーに向くって。しかし、外向性を会社・企業・学校では絶対視する傾向がある気がします。そうした価値観を無理やり押し付けるのもおかしいです。自分の考えをしっかりと発信できる人も大切だけれども、逆にそうじゃないところで良さを引き出せることもあるのではないかと思ったりします。どんな人も無理やりそれに合わせなくてもいいんじゃないかって思ったりします。臨機応変に変えられるのが理想なのかもしれないです。

2013年8月2日金曜日

いい加減なことと真面目であること

いい加減であることと真面目であることについて、共有したいなと思います。
(敬語を使いたかったですが、少々入り乱れたことご容赦ください)

みなさんは、真面目ですか?いい加減ですか?

私は最近迷っていました。世の中いい加減であることがいいっていうような価値観をマスコミやドラマなどを通して、私たちは洗脳されてきたのではないかと私は思います。

私自身は高校までは、真面目にやってきました。
学校の先生が言われたことはきちんと守って、先生が求める理想な生徒というか、そういうものを演じてきました。
だから、別に面白くもなかったと思います。
別にクラスで人気だったわけでもなく、中心的になにかしたことも特になかったように思います。
でも、それだと何も目立たないというか、存在感がないというか、そんな感じで見られていたのではないかと思います。

当時はっていっても数年前の話ですが「のぶたをプロデゥース」とか「花盛りの君たちへ」、「ごくせん」など
「いかにも青春しています」みたいな学校をテーマにしたTVドラマが数多くやっていました。
そこでは、極端にいうと、いかにも教師に服従するのではなく、「自分たちの人生をエンジョイしようぜ」というか、
「いかにも青春してます」みたいな生き方がクローズアップされていて、
僕たちの世代もだいたいそのような中で、俺にしかない青春みたいなものを追い求めようとしていた人が
多いように思います。

そして、その中では真面目であることは、低く評価された。
真面目にコツコツとやる人っていうのは、面白みに欠けるとか、言われてきた。
私は後者であった。そこで、正しいことって、ふざけることなのかってどこかで思ったりして、
大学に入って、色々と真面目な自分とはおさらばしてやろうって思って、
サークルとかでいろいろと抜けたことをやってきました。
授業も休んでみたりとか、遅刻したりとか。
まぁ、それをして先生に怒られたことも何回かありましたが。
とりあえず、色々としてみた。

しかし、そうした生き方ってやっぱり反発を生みやすいってどこかで薄々と気づいていました。
私ふざけたりして、高校までで怒られたことは一切なく、
面白くなければ、普通で、しいて言えば勉強が出来るくらいだったように思います。
だから、自分のアイデンティティが何かわからなくなる。
でも、そうやって個性的というか、浮こうとすれば浮こうとした分だけ、
「それは違うくない」「おかしいんじゃない」みたいに言われる。
批判も多かったように思います。
勿論、人を動かす原動力にはなる。
物静かな人と議論をするときは、いかにも今自分が進めているなみたいな優越感というか、
そうしたものを感じる。
でも、どこかで反発というか、自分勝手というか、そうした一面があることは否めない。

こういう色々と前に出ようとする人間って本当に鬱陶しいと感じることが多々ある。
私自身そうだ。誰かが自分が前に出す人って、自分が動かしていると錯覚している。

確かに動かしているのはそうかもしれない。
しかし、実は意外とそういう自分だけではないということがわかる。

例え、あまりしゃべらない人であっても、作業するときは真剣にやってくれるし、
時にそうやって前にでしゃばる人よりも頑張っていることだって満更ある。


要するにウダウダと述べてきたのですが、
言いたいことは真面目な生き方を見直す時が来たのではないかと思います。

今まで、そうした滅茶苦茶な生き方がいいというような価値観を面倒くさがりやで怠惰な人間が
これは良いものだと、自分たちの価値観を肯定するために、メディアやマスコミ、ドラマなどを通じて、
無理やり広げ、「真面目な生き方=ダサい・うっとうしい」として、
そうした生き方を排除してきたように思います。

でも、これからの時代、おそらく価値観が変わってくるのではないかと思います。
昔は真面目な人間が比較的多かったように思います。
例えば、第2次世界大戦の時には命を懸けて国の為に尽くすような人が多かった。
そして、その後、高度経済成長を経て、みんな真剣に働いて、
いわゆる落ちこぼれというか、社会からのけ者にされていた怠惰な人が
自分たちの生き方は素晴らしいというか、そうした価値観を植え付け、
その一部の価値観に魅力を感じたのではないかと思えます。
そして、学校ではいい加減というか、不真面目というか、そうした人が
クラスの人気者であったりしたわけですが、
今はむしろ、真面目な生き方が見直されている時代であると思います。

少し論理的に飛躍があるかもしれないですが、
全体的に今優位で前者の価値観が大きなウエートを占めている中、
浮くのはどちらか。それは少数派の真面目グループ。
近々、パラダイムシフトが起きるのではないかと思います。
真面目な人が認められる社会に。

長々失礼しました。





8月1日八朔の日

今日は八朔について、見ていくことにします。

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦8月1日のことです。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからありました。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

京都東山区では舞妓や芸妓さんが、世話になっているお茶屋や芸事の師匠の宅へ挨拶をしにいくという風習があるようです。
熊本県では八朔祭りというものをやっており、この祭りは江戸時代中期から始まったとされ、田の神に感謝し、収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りです

八朔の時期には日ごろお世話になっている人に恩を感謝する意味で贈り物をします。
こうした贈り物の文化もなんかすたれてきているような気がします。
私の場合、モノを送って他人を幸せに出来るのかっ、押しつけがましいというか、あまり機械的過ぎて、
心がこもっていないと思う節があり、今まであまり好きではありませんでした。
親がそうやって、気持ちだからと言って、贈り物をしている姿が不思議でならなかった。
でも、実はそうした送るという行為の中にあなたのことを思っているっていうような
メッセージが込められているのではないかと思いました。

昔絵画でお世話になった先生など、お世話になった方に何か送りましょうか。
そうだ、お手紙をつけたらいいんだ!そしたら、押しつけがましいなんてことはないですよね。

2013年8月1日木曜日

次の目標

何か大きな目標を追い求めたい。
受験の時のあの感覚をもう一度って。

ふとポストをのぞいたら、京都マラソンの募集が。。。
でも、今の僕にそんなこと出来るのか。
今まで、運動を真剣にやることがなかった人間である。
ぜんそくにより発達期において、運動をすることが出来ず、
体力では少し問題がある自分に。

いや、出来ないことはない。
受験の時もそうだった。
こんな大学受かるわけないじゃんって何回も言われて。
でも、必死でやったら、周囲の期待に反して合格できた。
この前の英語のプレゼンも感覚を掴めたらかなり変化した。

それにスポーツに関して優秀な教授がうちの学部には揃っている。
恵まれた環境にいるわけだ。
その先生から多くのことを習ったけれど、実践に移さないと、
知識のままで、教養ではない。

出来ないって決めつけたら、絶対できない。
出来るものもできなくなる。

可能性を信じれない人は嫌いだ。
でも、世の中、可能性を信じようとするどころか、
冷やかな目で見る人の方が多い。
一度、行動を起こしたら、変えられる。
これは僕のやりたい方向と違うなって思うと終わりだけど。

もし達成できれば、
人ってこんなに変われるんだって示すことが出来る。
多くの人に夢や希望を与えることができるんじゃないか?

よし、決めた。エントリーしよう!
そして、今やっているエアロビクス・インターバル・トレーニングの時間を増やしてみよう!あと、教授にアドバイスを頂こう。