2013年9月28日土曜日

将来について色々と

某コンサルティング会社の説明会に行ってきました(^o^)プレゼンが非常にうまくて、プレゼンについて色々とあんなかっこいい人になりたいと思いました。海外でも仕事が出来るというのは魅力を感じました。

何をしたいかが漸くつかめてきた気がします。教師は勿論成長する教師ってよく言うけど、現実どうよって突っ込みたい。今はバイトでの経験もあり、もう少し成長したいということで20代はビジネスに関しての自主トレです。

目標:
・出来ないという子を優秀な人材へする手助け(要は方法論)
・教育と社会のリンク
・初めから可能性を否定すること自体がまちがいであることを証明する
・一見可能と思われないことを複数のモノを組み合わせて解決する
・想像力を!(思いやりみたいな)なぜなら、民主党の鳩山さんやみのもんたさんのページ見たらわかるように、コメント欄にひどい言葉ばかり書かれている。しかし、そんな風に書くのは、虐めともいえるし、レベルが子供のあかし。

最近考えていることですが、
20代⇒数年就職・MBA
   紆余曲折を経て、まずは大きく幅広く世界知ろう!
   ビジネスのノウハウを知る期間
   信頼できる二人作る※信頼できる親友と呼べるような人は未だ一人   しかいない。
   
30代⇒起業
    教育事業+α何か儲かりそうなものでビジネスする 
    経営での困難⇒何らかの方法で克服
    金儲け(お金がないと何も変わらない)    
40代⇒施設作り・子供と関わる・ボランティア
   【行いたいこと】
   ①雇用の創出
     雇用がなければ家計が苦しい人は
     子供に十分な教育を与えられない。
     雇用が増えれば、子供に適切と言えるかわからないが、
     少なくとも虐待は減る。十分な教育保障に一部つながる
   ②社会と教育のリンク
     今の教育は5教科に特化して詰め込み。しかし、現実必要にな     るのはコミュニケーション能力やプレゼンスキル、議論をする     力だったりと、大きな乖離がある。だから、教育においてビジ     ネスを学ぶ機会を創出したい。具体的ケースを議論したり、お     金について、学べる機会を。
   ③どんな人にも可能性があるってことを示せたらな~(野望)
     水谷修さんのようになりたい。

50代⇒事業拡大・ボランティア
    学校サポート体制
    施設の増加・雇用創出
  
60代⇒海外進出・ボランティア
    カンボジアなど、教育が十分に整備されていないところへ
    島田紳介みたいに学校立てる(野望)
    ※2050年代の話なのでパラダイムが大きく変わっているかも

70代⇒ボランティア・趣味の油絵・デッサンで個展を開く
  老害にすぎないから、代表取締役的なポジションは降りる
  ひたすらマザーテレサになる

80代
動けば⇒70台に同じ
体が動かないとき⇒多分宇宙に行けるようになっているはずだから、宇宙へ旅立つ⇒無重力状態のせいで骨粗鬆症になり、体中ポキポキ→病院行き→人の迷惑になりたくないから、自分からお墓へさようなら    

このキャリアを実現するうえで、結婚はないかなぁ。いい人がいれば別ですが、こちらから求めることはないと思う。結婚相手に求める条件は冒険好きな人かなぁ。事業が失敗したら一緒に借金背負う覚悟がある人がいいです。はい、そんな借金背負う覚悟がある女性なんていないですよね(笑)

ビジネスって、本当に冒険ですね。ということを最近すごく感じています。要は正しいことって存在しない。一見すると間違って見えることも、意外と成功したり、成功しないときもある。個人的には常にエンジョイアブルしたい。小学校の3年時にヘロヘロ君という劇をしましたが、お客さんが喜ぶ姿が本当に忘れられない。あんなふうにenjoyableにしたいわけです。昨年はスクエアダンスとラウンドダンスで主に1回生あてに色々と暴れたわけですが、結局は自分がenjoyableしたかった。だから、クイズを取り入れたり、シンギングをしたりと好き放題しました。

要は個人的にわくわくしたい。でも、これは要はお前子供ジャンってなりかねない。幼稚は格好悪い。でも、まじめすぎるのも面白くない。上に書いたことっていうのは、かなり真面目。やりたいことというのも、まぁ、悪いことを考えていないだけいいけど、面白みがない。だから、僕はお笑いの要素を足していきたいわけです。笑いにより人は元気になる。でも、笑いを取るって案外難しくて。バイトで講師として前でpptを使って授業している時も、受けるときと受けないときの差があり、それは何に起因するのだろうと考えたこともあったが、良くわからない。聞き手とプレゼンテーターの心のつながりというか、阿吽の呼吸というか。

人生でわくわくをする瞬間ってあるわけです。でも、なかなか限られる。
しかし、人はどこかでそのわくわくを求めている。

2013年9月27日金曜日

人の批評ほどうざいものはない

ある方のブログを読んでFacebookにての投稿を辞めてしまいました。
最近就活にて、かなりのビジネス(主にコンサル関係の本)に関する本を読んでいるのですが、結局、経営において大切なことって人によって全然違うわけで、いくら何かの行動の為に分析を行ったところで、何かを始めるときは、その通りに進むことなんてありえない。ある程度の分析から、その範囲内に落ち着くことはあっても現実何が起きるかわからない。最近売れている不格好経営という本にて、コンサルって実際にビジネスするうえであくまでアドバイス、実際に何かをやるとなると別ってことを知りました。ということは、人からアドバイスをもらうというのももちろん大切ですが、結局は自分。このことは今までの自分を振り返ってみてもそうだった気がする。実際、人に頼っている時に成功したことというのはなかった気がする。自分が選んだ道でこれでいけばなんとかなるみたいな、そんな自分の中の漠然とした直観に頼ってひたすらやった時に成功する気がする。要は人に頼っているようじゃまだまだで、人の成功例のアドバイスをそのまま鵜呑みにしてはいけない。

とまぁ、こういうことを色々と勉強していると、いかに人を語る人間というのが見苦しいかということがしみじみと感じられるわけです。評論するのは簡単です。でも、それが、まるで後付というか、結果が起きた後に、「あいつはこうだったからこうなったのだ」とか「あそこがいけなかったのですよね」とか。自分がその立場にいたら本当に問題は起きなかったのか?と考えてほしかったり。自分も時に人について語ることがあるわけですが、どこかで、自分に対してイライラするわけです。僕の場合は、うちのような大学に入ったことに対して、高校の時の学校の先生が語っているそうです。「こいつはなぁ、こんなに一生懸命やったんや。やから受かったんやで。努力したらきっと報われる」みたいな。でも、僕としてはすごく腹が立つわけです。努力しても必ずしも成功するとは限らない。勿論、その成功をどのように定義するかはおいておき、果たして社会に出て、いくら必死で残業をしているからと言って、必ずしも、昇給できるとも限らないし。どこかで、冷めているのかもしれないですが。しかし、そんなこと言うなら、自分でやってみろよって思うわけです。

なんやかんや今までを振り返ると本当に失敗が多い。必死でやれば、勿論周囲の人は納得してくれる。しかし、結果を出せなければ意味がなく、出せないなら、いくら主体的に出たところでアウトです。今までの2年半くらいを振り返ってみると、色んな意味で失敗が多かった。勿論、成功して人から良かったねと評価されることはあったが、どちらかといえば、失敗だらけだ。アルバイト先でのチームリーダーとしての会議の運営やリーダーシップ、マネジメント、、、あげれば切がない。その失敗が起きないためにどうしたらいいかということも徹底的に本を読み実践できるところは直してきたが、勿論まだまだ不十分なのは自覚している。

勿論、失敗は成功の元とかいうが、でも、失敗は失敗。負けは負け。亡くなった祖父から「勝つんや」って言われたことだけは今も鮮明に覚えている。でも、確かに仰せのとおり。結局結果を出さなければ意味がない。失敗を美化して後から、あの失敗があるから今のキミがいるんだって結局は結果論。綺麗事にすぎない。自分で実現したい夢や想いを語るのは、僕は良いと思う。なぜなら、そのことによって、思いを共有できるわけで、少しでも賛成してくれる人が出れば何かを生む。一つの結果を生む。しかし、何もそれに携わらない人がいうのは違う。横から、「お前のしていることは何々に過ぎない」って、批評するのはいかがなものかと思う。

後、先入観を持たないこと。人間先入観を持って人を見る。「お前にはこれは出来ない」とか「見た目からして、お前にこの仕事は出来ん」とかいうような人間。ほとんどの人間はこの先入観にとらわれすぎていると思う。しかし、実際どうなのか。僕の場合は愚かさの骨頂であると考える。なぜなら、その人間の通ってきたことを何一つ考えない、想像力の欠けた行為であると考えるからだ。高々、人間のできることなど限られている。例えば、就活において、ある人事の方が、所詮大学生のしてきたことなど、似通っているし、大した違いはないという。事実そうだろう。考えるプロセスなどは多少は異なるにせよ、発想や考え方それ自体に大きな考えが出せるかというとはなはだ疑問である。

要は、先入観を持つな。批評家になるな。自分の直観を信じよ。失敗は失敗。成功は成功。

核となるメッセージがすごく漠然としていますが、心のそこで感じている思いをそのまま綴ってみました。

2013年9月25日水曜日

These days I often go to business seminers and company explanatory meetings, getting to know more and more about business worlds!!! It is very excitingggg! and realize how faraway the gap between what we are taught at school and what is happening in this real world.........So instead of being a teacher, I decided to do job hunting in order to fill the gap between education and society. For the first periods of my career, I work at some company and learn what is needed in business. After that, I wanna do some business, and link education and business, giving chances to everyone. Maybe difficult, but as Steve Jobs said "follow your heart and intuition", there must be some possibilities!!!

2013年9月18日水曜日

将来について

企業によって雰囲気とか、目的意識が全然違うことに驚く日々この頃です。数年間働いてからの教員人生の方がいいと個人的に考えつつ、しかし、社会で働いたからと言って、それを子供とリンクできるのかということに少しギャップを感じます。その道のプロになるためには、一つのことに必死にならないと駄目であることは過去の経験から気づいている、かつ日本という社会が転職を好まない社会。しかし、だからと言って、既存のルートを歩んでいたら、新しいことを起こすのは難しい。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチでconnecting the dotsっていうのが出てきます。彼は大学の授業が無味乾燥に思えて、哲学やカリグラフィーなど、色んなことに手を出したわけですが、結果的にスピーチの中でああした経験がなければ、アップルの成功はなかったという風に言っています。そして、"Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later."って言っています。要は今はわからなくても、10年後とかから振り返れば、何かスッキリするさってことです。

今の自分もまさにそんな感じなのでしょうか。ある意味そうなろうとしていたところがあります。1回の初めは踊りに少し惚れたものの、後期からマジックに惚れ、ユングやフロイトの精神分析・水谷修さんに興味を持ったり、2回生になったら、スクエアダンスを通して、人を楽しませるこのに力を入れたり、後期にはまた関心が変わって、バイトを通して、プレゼンや授業づくりやリーダーシップに興味を持ち、そうした本を読みまくったり(リーダーとしてはまだまだですが)、3回生になったら社会で活躍されている方のお話を聞いて、ビジネス関係の本を買ったり、バイト先での組織運営の在り方とか、そうしたものを学んできました。今はとにかく資格試験の勉強やビジネスマナーの本、ボディ・ビルディング、ヨガ、ランニング等の体力づくり、美術、サークルの卒アルの整理など色々と。

ただ、人から見ると広々とやりすぎていて、何をしているのかわからないと思われることもよくあります。組織に属すという観点からするとあまり使えないと思われるでしょうし、自身それなら、そう見てくださいと思うしかないわけです。そうなるに至る原因は自分で作ったのだから仕方ないのです。

話は初めに戻りますが、どうでしょうか?社会に出るべきでしょうか?いろんな方に相談して、結局最後は自分でなんとかしろという話だと思うので。何か新しい風を吹かせたいという漠然とした思いをもう少し具体的に洗い出さないといけないかもしれません。僕がしたいのは、ただ、人に尽くせる場所にいれたらそれでいい。なぜなら、それでしか、自分の存在意味を見いだせないからです。名誉や地位で人が幸せにならないわけで。誰かに与えられないなら、自分が死んだときに、人生を振り返って何が残るか僕自身には理解できないです。ここでいう与えるというのは精神的な意味においてです。アインシュタインやヘレンケラーといった人物も「人に与える人生こそが素晴らしい」という風に述べています。

しかし、その方法は新しいやり方がいい。今までに誰もしたことのない新しい価値を生み出したいです。せっかく、こんな大学に入れたわけですから、何か新しい価値や考え、行動をしないと。異分子になるということは、逆に攻撃をうけまくるということですが。でも、必ずしも、既存のパラダイムが正しいということはなく、時代や環境によって、その解釈はガラリと変わってしまいます。例えば、デカルトが二元論を打ち出した時から、その流れが近代科学へと繋がり、既存の正しいと信じられたやり方がひっくり返りました。日本なら、例えば、明治時代において伝統的な漢方が、西洋医療のせいで否定されたりと。

この辺で終わります

2013年9月16日月曜日

ドクター・マクスウェル・モルツとサイコ・サイバネティクス



0.はじめに
今日はドクター・マクスウェル・モルツという人物を紹介したいと思います。テーマはサイコサイバネティクスです。私は今までにも自分のとらえ方を出来るだけポジティブに捉えることが大切であるということを今までに何回か書かせていただきました。そのことをさらに深めてみたいと思います。

彼についてご存じでない方も多いと思いますので、簡単に略歴を紹介します。モルツ博士は1899年にニューヨークに生まれ、1975年に76歳で没しています。1921年にコロンビア大学で学士号を、1923年に同大学内科・外科カレッジで医学の博士号を取得。ドイツで形成外科の臨床研修を経た後、再びニューヨークの病院で形成外科に携わります。その後、数多くの患者とのカウンセリングを通して発見した知見を、サイコサイバネティクスという独自の成功法則として構築しました。

サイコサイバネティクスという言葉が出てきました。この理論こそが、多くの人に注目された要因です。具体的には、自分のセルフ・イメージが自分を規定してしまうということです。すなわち、自分が思い込んでいるような人間になってしまうということです。では、どうして、このようになってしまうのでしょうか?このことについて、彼のエピソードについて、書こうと思います。

1.サイコサイバネティクス(phyco-cybernetics)という理論が生まれたきっかけ
これは、モルツ氏が形成外科の時に起きたお話です。アンナという患者がモルツ氏のもとにやってきました。モルツ氏は名医で、沢山の患者の外傷を直してきたということもあり、今回もすぐに何とかなるであろうと考えて治療に臨みます。

アンナは事故によって、顔に大きな外傷を追ってやってきました。モルツ氏は、いつものように治療して、結果的に顔の傷は綺麗に治りました。しかし、鏡で自分の顔を見たときのアンナは「違う」と言います。

何が違うのかということが、モルツ氏には理解が出来なかったのですが、のちにその理由が母親から教えてもらえます。アンナの母親はアンナが交通事故の直前まで、ある男性と婚約していたこと、そして、
事故で顔に大きな傷ができてしまったのをきっかけに、男性に逃げられてしまったことを話した。できることならこんな話は誰にもしたくはないが、愛する娘の顔の傷を治してくれた恩人ということもあり、母はつい口を滑らせてしまった。

そのことを聞いて、モルツ氏はアンナに直接かたりかけました。
「アンナ、顔の傷はもうなくなったのだよ。もう綺麗な元通りの顔に戻ったのだよ。」
「でも、彼はもう戻ってきません…」
「アンナ、君は自分が悪いと言っていたけれど、自分を責めているのかい?」
「…」「ええ、そうですね。自分が嫌いです。なんで事故なんて起こしてしまったのだろうと・・・、今でもそのことばかりが頭をよぎります。」
「アンナ、なぜ、自分を責めるんだい。逃げたのは君じゃなくて彼の方じゃないか。なんで他人がやったことで自分を責めなければならないんだい?」

モルツ氏は熱い口調になって問いかけた。彼にとってみると、他人の起こした事件によって、自分を責めたり、後悔すること自体がばかばかしく思えた。

暫く、アンナは黙ってしまいます。そしてこの際の面会は終わりにして帰ろうとしたときに、アンナは「頑張ってみます。先生、今日はありがとうございました。」と伝えた。

その後、モルツ氏は、自分が直したのは外傷であったが、アンナに必要だったのは心の傷ではないかと。そして、医師として、心の傷を治すことも必要ではないかと考えるようになりました。

その後、病院で忙しく働いているときに、アンナがやってきます。半年前に会ったのが最後で、満面の笑みを浮かべていたこともあり、誰かが分からなかったそうです。

アンナはあの日以来少しずつ自分を変えていきました。元に戻らないで自分を責めるのは辞め、ポジティブに物事を捉えるようになりました。

この経験をもとにモルツ氏は一冊の本『サイコサイバネティクス』という本を出版します。

2.モルツ氏の発見したサイコサイバネティクス
サイコサイバネティクスという理論は主に二つのことが基盤としてあります。

2-a.セルフイメージこそが自分を規定する
2-b人間の脳には自動的に成功を追い求めるメカニズム(A.S.M)が組み込まれている

このことについて簡単に説明したいと思います。

2-aセルフイメージにより規定される
私たちは、自分に対して何らかのイメージを持っていると思います。


3.私自身の問題意識

4.これからの時代において求められるもの








facebookの更新を辞めたわけ

Facebookに更新を辞めたわけを書こうと思います。けっこう使っている人は御免なさい。そういう方は、読んでいて心苦しいところもあるかもしれないので、そういう人はお前ひねくれているわみたいに思って下さい。

facebookといえば、皆さん、どういうことをあげますか?

旅行に行った写真、自分の食べたご飯、自分の可愛いorかっこいい写真
友達とふざけている写真、日々思っていること、自分が体験したこと、
勉強になったサイトのURL

などなど、あげると切がないと思います。
一つ聞きます。皆さんはどうしてそうしたものをあげるのですか?

・親や友達に自分の近状を伝えるため
・enjoyしていることを示すため
・自分の考えをみんなに知らしめるため
・周囲に自慢するため
・友達が多いことを誇示するため
・「いいね」によって、今の自分を肯定するため
・いい考えを広めるため
・知り合いとのつながり維持

他にも色々とあると思うのですがだいたいこんなかんじだと思います。僕の場合は「近状を伝えること」「繋がり維持」というのが大きいと思うのですが、最近は時間の無駄としか思わなくなりました。

確かに近状を伝えることって大切だとは思うのですが、それならば、全員に公開されるfacebook(もちろん非表示にする機能もあるが)にあげるよりいい方法が他にあると思うのです。facebookより電話で話しり、会って話す、あるいは手紙を書く方がいいと思うのです。その方が思いが伝わります。また、会った時に話題が尽きないと思うのです。というのもfacebookにあげてしまうと、もうその人が何をしたのかが一目でわかってしまうために、会った時に会話でわかることが少なくなります。

さて、だらだらしたので、簡潔に僕がfacebookに嫌気がさしたのは以下です。

(A)時間の無駄
(B)読み手からしたら不愉快
(C)自己愛

(A)
僕自身余り今まで認識していなかったのですが、なんやかんだで、この時間意外と長いですよ。


(B)
読み手の立場になってみて考えていただきたいです。例えば、誰かが自分の食べた料理をアップしたと思います。皆さんからするとどのように思いますか?僕だったら「お前の腹の中に入った料理とか興味ないわ。」って思うんじゃないかと思うのですがいかがでしょう。

また、ある人が「私、広島行きました!○○を見に行って、友達と遊んでめっちゃ楽しかった!」「海外に遊んできます」…って感じで写真まで貼っているとします。皆さんはどう思いますか?この子enjoyしているわ~。「いいな」⇒「いいね」ボタン。。。。このプロセスってある意味羨望や嫉妬の的になるのでは?こいつはいいなって。それが、こいつばっかりいい思いしやがって。。。。となるのではないかと思うのです。


(C)
最近思うことの一つとして、自分がどんだけ可愛いのかという話です。心理学的には自己愛とも言います。アップするのは良いですが、自分の写真を色々とアップして、他人から「いいね」といってもらうのは何か違うのではないでしょうか?そんなに自分のことを肯定したいのかというのが、相手に伝わるような気がするのです。ただ、これはひたすら、私ってすごいでしょ、みたいな。

勿論、人によって捉え方は変わるので一概にこうだということは出来ません。勿論いい面もあることは確かです。しかし、私の場合はここに挙げたうち後半の二つに嫌気がさしたわけです。何かいいとらえかたはないでしょうかね?










What is the leadership?

 
    Today I would like to talk about leadership.These days or From the time immemorial, it is said that leadership is important. Because they will change our society.My faculty integrated human studies, is also saying our purpose or policy of education is to make students have the leadership.
By the way,What is leadership?
     Who do you come up with who have the skills of leadership?Maybe there are some people you will soon come up with. There are many people who have the leadership from the past. I think the person of leadership is those who can form an agreement. You may wonder what this means.
I’d like to explain about it. 
These people are some examples. Like Kim jyonnwill who moves the politics of North Korea, Hittora-, who controlled  German people, and he is very good at speaking, Tojyo Hideki who conducted war during the World War 2. Recently, some people say Hashimoto Tooru have the skills of leadership like Hittora-He is often associated with Hitra-. As these people shows leadership is often associated with those who are like dictators. I think this is true, but recently I think what is needed for leader is changing now.
    My former image of leadership is like this figure1. There is a person who have strong force and can move many people. Furthermore they can take some great action. Many people think leader is like that. He is admired and often called charisma.
figure1

My image of leadership is like figure2. There is one person. He communicate with other people and tell their ideas to another person and vice versa. Through series of communications, he will reach an agreement. After that he will gather ideas from various people and take some actions. This is my image of leader.
figure2
These days thanks to the Internet, many people can express their ideas to other people.
Each person has different ideas and values. In order to take some action in this society, first of all we have to unite different ideas. For example ,at first, they hold some meetings and exchange ideas and make an agreement. Then they will tell the ideas to other people and reach an agreement

In conclusion, I suppose the skill of leadership is to form an agreement. This ability is needed in many fields such as insurance company, consultant company, sports education, and so on. In short, the companies, whose tasks include communication with other people. There are many service industry, so it is needed. For the outlook for future, in Japan there are few classes whose styles are discussion. So it is necessary to make classes for communication and improve the skills of leadership in Japanese education. Thank you for reading.

正負の法則



今日は正負の法則ということについて、皆さんと共有したいと思います。
三輪明宏さんの著書である『ああ正負の法則』ということについて見ていきます。
この本の中で正負の法則ということが述べられています。どういうことかと言いますと、「いいことが続けば、悪いことも起きる」、「悪いことが続けばいいことが起きる」ということです。私自身この本を読んだときは非常に確かにそうだなと感じました。


(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%82%E6%AD%A3%E8%B2%A0%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E7%BE%8E%E8%BC%AA-%E6%98%8E%E5%AE%8F/dp/4891946458

要は、生きている間に「プラスマイナスゼロ」になるということ。いいことがあれば、その分悪いことも付随してくるし、悪いことが続いても、きっといいことが生きるということ。この宇宙は「陰と陽」の関係で成り立っているというわけです。

私自身今までの人生を振り返ってみてもそのような波があったように思います。私の場合は、小学校の時に喘息で学校を休みがちで入退院を繰り返しており、運動をあまりしてこなかった。おかげさまで、中学校、高校、大学と様々なところでスポーツがあまり得意ではなかった。また、勉強もまともにやっていなかったこともあり、中学校に入ったときの最初のテストは最下位に近く、非常に困った。また、虐めや不登校といったこともあり、私は学校の先生や親から普通の子ではありえないくらい、すごく手助けしてもらった。私自身、そうした手助けと自分を変えようと思ってひたすら努力してきたこともあり、学校の中でも、成績はだんだんと上位になり、親をはじめとして多くの人に「頑張ったね」っていってもらった。そして、その中で、人の好さというか、愛というか、そうしたものもいっぱい与えてもらったし、必死で人に尽くすことの大切さとか、虐められている子がどんな気持ちかとか、不登校の子がどんな気持ちでいるのかということ(もちろん一般化は出来ないが)を身をもって学んだ。

結果的に私自身は紆余曲折を経たわけであるが、普通の人が体験できない経験や感動を味わうことが出来たし、普通の人が困らないところで一杯困ったこともあった。これからは、この経験から得たことをどのような形で社会に還元できるかというのが課題です。私は困っている人、弱者を救いたいという思いが強いです。

要は得たものと失ったもの両方あり、それをプラスマイナス足し合わせると結局ゼロになると思うのです。

さて、最近のニュースに関して一番ホットなのは、テレビの司会者であり、フリーアナウンサーであり、タレントでもある、みのもんたさんの話題であると思います。みのもんたといえば、テレビ界においては超大物の人間で、年収が40億から50億とも言われています。『みのもんた朝ズバっ』においてかかる時給が300万円と言われています。(※勿論、この大部分は、税金で持って行かれるのですが)。私が子供のころから慣れ親しんだ方でしたが、二男が窃盗容疑の為に逮捕を受け、自身のレギュラー番組であった『みのもんたの朝ズバッ!』と『みのもんたのサタデーずばッと』への出演を自粛すると発表しました。また、痴漢未遂の疑いもかけられており、Utubeでかなりそうした動画がアップされていて、コメント欄には物凄いバッシング。かなり、この夏に起きた問題は大きな転機になってしまったと思います。私自身は、バッシングの言葉を見て、この言葉を発している人に対して憤りを感じずにはいられませんでした。なぜかというと、確かにやったことは間違いだったと思います。そのことについて、責任は問われるべきであると思います。しかし、「死ね」とか「消えろ」とかそうした言葉は本人に対する人権侵害であると同時に何の生産性もないからです。感情的に責めたところでどうしようもないでしょうし。この事件から、勿論、結果論でしかないので直接的には言えないですが、正負の法則が働いているように思われます。かなり、メディアの世界において、最高の地位に付け、多くの人に愛されて(多くの国民に知られるような存在)いましたが、今回ものすごい数のバッシングがありました。

他にも、島田紳助さんの時も、すごいトーク力によって国民から支持を得ていたにもかかわらず、暴力団との接触によって、あっさりと芸能界から引退してしまったり。

歴史的に視たときはどうなのでしょうか。例えばフランスのマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(1755-1793)は彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたり、また無類の浪費家でギャンブルに耽った。結果的に多くの人の不満や憎しみを買い、最終的にはギロチンによる処刑です。また、ナポレオン・ボナパルトはフランス革命後の混乱を収束させ、軍事独裁体制を敷き、イギリスを除く、ヨーロッパの大半を制圧するわけですが、最終的にワーテルローの戦いで敗北、セントヘレナ島に幽閉されてしまいます。

こうしたように歴史的に視ても、正と負の両方の側面を理解できます。

そこで、何が必要かというと、とにかく、自分から負を先払いすることが大切だそうです。どういうことかというと、とにかく、世のため人のためです。その中で、愛を誰かに与えることを通して、先に負を先払いするのです。口で言うのは簡単ですが、実際は難しい。

それこそマザーテレサは人に与え続けた人の典型です。だからこそ、ノーベル平和賞を受賞したり、今なお数多くの人に愛されていますし、尊敬されています。

そこで、私自身は?私自身も、もっと与えないといけないと考えています。ですが、その方法が時に不明瞭になることがあるのですが、私はとにかく仕事に尽くすことであると考えています。結局のところ、自分のすることに真剣になれば結果的に誰かにいい影響を与えられるのではないかということです。例えば、私のサークルを挙げてみると、踊りを極めた人は下の人から尊敬されます。また、私の場合、教育の知見を色々と勉強してきたので、結果的にそうした人たちからなるほど、そんな考えもあるのがーって思っていただいて、会えてよかったといってもらえるのが非常にうれしいです。また、私が受け持ったパソコンの授業にしても、うまく教えることによって結果的に全体の雰囲気をよくしたり、他のスタッフから人気講師ですね、参考にしたいですっていってもらえたりと。他にも、私の勉強への姿勢を兄弟が真似してくれたり。

要するに何が言いたいかと言いますと、自分のやっていることに精を出すということ。それが結局、誰かに与えることなのかと思います。勿論、マザーテレサのようなことを出来る人は数少ないと思いますし、また、みのもんたや島田紳助のようになることは難しいと思います。しかし彼らに共通するのは目の前のことに熱心であることです。

さて、正負の法則という話からいかに生きるかという話題になってしまいましたが、何か参考にしてもらえると幸いです。私自身、何か皆さんに新たな発想を知らない人に提示していきたいと思います。








偉大な教師の条件とは


今日は偉大な教師の条件ということについて考えてみたいと思います。私自身偉大な教師と思える人は少なかったように思うのですが、その中で共通して言えることは、知識を教えるだけではないということです。よく学校の先生というものは、教科書に書いてあることから授業を組み立てて、日々の授業を組み立てていますが、それでは一流のプロとは言えないでしょう。

本当に生徒の記憶に残るような教師というのは、命がけのようなところがあったと思います。
ウィリアム・アーサー・ウォード(1921― 1994)というアメリカの詩人であり、牧師であり、教師だった人物はこのような言葉を残しています。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.
—William Arthur Ward

「普通の教師は、言わなければならないことを喋る。良い教師は、生徒に分かるように解説する。優れた教師は、自らやってみせる。そして、本当に偉大な教師というのは、生徒の心に火をつける」ということですが、私の考えと一致するような気がします。

では、どうしたらinspireできるのでしょうか?この答えは人により区々(まちまち)なところがあると思います。武田鉄也主演のテレビドラマ「金八先生」に出てくるような教師像は確かに理想形でしょう。

あのドラマは1979年から2011年までの32年間にかけて、TBSにおいて断続的に制作・放送されたということもあり、視聴率もかなり高かったからこそ続いたのだと思います。また、国民から理想の教師の在り方と捉えられていた一面もあるのではないでしょうか。他にも学園をテーマにした様々なドラマ、例えば、天海祐希主演の「女王の教室」や「野ブタをプロデュース」、「生徒諸君」など数えるときりがありません。

しかし、現場の先生や大学の教授など多くの人はあんなことは現実化しないと言います。確かにテレビドラマはたいてい10話程度で終わってしまうという点でシリーズが始まってから、終わるまでにかかる時間はそんなに長くはありません。一方で現場は中学校や高校が3年、中高一貫校であれば6年というかなり長い時間がかかってしまいます。そして、虐めや不登校といった何か問題が起きた時、ドラマであれば、1話か2話程度のたったの2時間の中で解決されてしまうのかもしれませんが、現実はそうではありません。そうした問題を解決するには、短くても1年とか長くて3年とか、それ以上になってしまうわけです。

おそらく学校の先生からしたら、そんなことは綺麗ごとに過ぎないとしか考えていないと思います。私たちの多くは、テレビの影響によって、「こんな先生がいまは現場にいない」とか考えてしまいがちですが、現実問題として難しい。確かにテレビで描かれているような、一人の革新的な先生といいますか、今までの既存のやり方から何かを変えられる教師像というのは本当にいたらいいなとは思うわけですが、現実問題として出来る先生はほとんどいないです。現場の先生は時間的にも個人に対して割く時間というのはほとんどないはずです。

ということは何か別の現実的にも実践できる理想の教師像というものを考えて行く必要があるわけです。だからと言って、それは既存のやり方で解決できるようなものでもない。時代が変われば、求められる教師像も変わって当然だからです。

初めに「inspire」させることこそが、大切であるというお話をしました。そこで、私が必要だと考える教師像として、以下の二点を挙げたいと思います。(勿論、これは個人で考えている意見に過ぎないので絶対的なものではありません。)

一つ目は、複眼的思考を身に付けるということ
二つ目は、信頼関係を築くことができるということ
三つ目は、潜在的可能性を引き出すということ

それぞれについて、次回から見ていきたいと思います













2013年9月13日金曜日

放射線と総合人間問題

It is very good for us to hold the Olympic games. I was moved by the English speech because every speaker was able to express their enthusiasm!!!!!!! However, whether the environmental radioactivity level in Tokyo is safe or harmful remains unclear. Nuclear Regulation Authority shows survey about this. From this data, we soon realize the level is not as low as other cities....... Later, some countries blame it of one problem....
※[Readings of environmental radioactivity level by prefecture (Fallout)]
([July, 2013])

東京的放射能的水平與其他的城市比較的話,相當高(貴)。儘管如此,用演說把放射能的水平稱為著安全,不過,從後邊開始這個那個地快要被指出了。

Yeah, these days, I am thinking about how I should live my life.... I began to search some information about companies or corporation. There are too many jobs, which sometimes makes me irritating because the difference between the similar companies are ambiguous. ...... On Sunday, I was able to meet friends when in high school and listened to her job hunting. Although I had a very wonderful time, I supposed it will be hard for me....

By the way, I have some wonder toward my faculty of Integrated Human Studies. Generalist or Specialist.  Maybe, each person is needed. However, for those who live their life with only one skills, such as law expert, doctor, and so on, will prefer the latter to the former.  I guess whether we are accepted is based on the perspectives of interviewer. .......

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2013年9月11日水曜日

教育に欠けている視点「世渡り力」

岡野雅行さんの本「人生は勉強より『世渡り力』だ!」(青春出版社、2008)を読みました。他人には出来ないことを磨くということに凄く感銘を受ける一方、学校の先生への鋭い批判も書かれていました。学校で教わる勉強なんて何の役にも立たないかもしれない。実際にうまく世渡りするためには人脈や仕事への熱意とかが必要ですが、そうしたものを学校教育で教わってできるかというとそんなはずない。確かにそうかもしれません。

大学の勉強にしても、例えば経済学を学んだところで、実社会で活かそうと思っても何が起きるかわからないのが現実。心理学にしても、人の心が読めるわけでもなく。実際に、企業の人は大学の学問が仕事するうえで役に立つなんて思っていないそうです。

インターネットを通して情報が溢れていることを踏まえたら、大学という場所が特別な機関ではない。これからの時代に求められるのは、新しい価値や考え方、モノを生み出すこと、あるいは人と繋がる世渡り力ということかもしれません。

就職活動をする中で、学校の価値観「みんなのいいところを見ましょう」とか語っても、生きる力には恐らく直結しないです。もちろん、道徳という側面から見てみるとものすごく意味のあることだと僕自身思いますが、果たしてどこまで響くのでしょうか。所詮は、社会に出たことのない人間が何かいっているわとか、そんなかんじでしか受け取られないのではないでしょうか。となるとしたら、学校の存在理由がよくわからなくなるわけです。協調性・思いやりを育んだりするという徳育の観点では確かに教育は大切。しかし、陶冶という観点からすると、本当に学校は必要なのでしょうか?

僕が学校教育に欠けているのは、社会で生きる世渡り力を育むことにあると思います。学校のやり方では、絶対に身に付きません。学校と社会をつなげられる人間になりたいと思います。なぜなら、ここは今までにまだ誰も成し遂げきれていないから。だったら、ここでプロットすることで、逆に新しいパラダイムを生み出せるような気がするのです。(パラダイム⇒科学・哲学者トマス・クーン)

といっても、現場は反抗するであろうし、社会からはよく思われないと思います。なぜか、既存のやり方に完全にしがみついてしまっているからです。何か自分とは違う異分子を見つけたら、当然自分たちの縄張りを守るために攻撃するでしょう。しかし、私は、今の教育はあかんと思う。

今のままだと日本が崩壊する。日本は資源がない国だからこそ知的に考えることで成長してきました。そして、情報が氾濫した時代において、情報それ自体に価値がなくなり、その情報をいかに使いこなせるか、既存の枠組みから新しいパラダイムを生み出せることが重要です。教育も今までの既存の枠にとらわれていては、時代の流れにおいていかれてしまいます。

だからこそ、新しいパラダイムを出せるよう、自分自身が異分子になりたいです。誰にも出来ないことに価値が生まれるのであれば、教育と社会の接点になりたい。これって実を言うとうちの学部の本来の姿!