2013年9月11日水曜日

教育に欠けている視点「世渡り力」

岡野雅行さんの本「人生は勉強より『世渡り力』だ!」(青春出版社、2008)を読みました。他人には出来ないことを磨くということに凄く感銘を受ける一方、学校の先生への鋭い批判も書かれていました。学校で教わる勉強なんて何の役にも立たないかもしれない。実際にうまく世渡りするためには人脈や仕事への熱意とかが必要ですが、そうしたものを学校教育で教わってできるかというとそんなはずない。確かにそうかもしれません。

大学の勉強にしても、例えば経済学を学んだところで、実社会で活かそうと思っても何が起きるかわからないのが現実。心理学にしても、人の心が読めるわけでもなく。実際に、企業の人は大学の学問が仕事するうえで役に立つなんて思っていないそうです。

インターネットを通して情報が溢れていることを踏まえたら、大学という場所が特別な機関ではない。これからの時代に求められるのは、新しい価値や考え方、モノを生み出すこと、あるいは人と繋がる世渡り力ということかもしれません。

就職活動をする中で、学校の価値観「みんなのいいところを見ましょう」とか語っても、生きる力には恐らく直結しないです。もちろん、道徳という側面から見てみるとものすごく意味のあることだと僕自身思いますが、果たしてどこまで響くのでしょうか。所詮は、社会に出たことのない人間が何かいっているわとか、そんなかんじでしか受け取られないのではないでしょうか。となるとしたら、学校の存在理由がよくわからなくなるわけです。協調性・思いやりを育んだりするという徳育の観点では確かに教育は大切。しかし、陶冶という観点からすると、本当に学校は必要なのでしょうか?

僕が学校教育に欠けているのは、社会で生きる世渡り力を育むことにあると思います。学校のやり方では、絶対に身に付きません。学校と社会をつなげられる人間になりたいと思います。なぜなら、ここは今までにまだ誰も成し遂げきれていないから。だったら、ここでプロットすることで、逆に新しいパラダイムを生み出せるような気がするのです。(パラダイム⇒科学・哲学者トマス・クーン)

といっても、現場は反抗するであろうし、社会からはよく思われないと思います。なぜか、既存のやり方に完全にしがみついてしまっているからです。何か自分とは違う異分子を見つけたら、当然自分たちの縄張りを守るために攻撃するでしょう。しかし、私は、今の教育はあかんと思う。

今のままだと日本が崩壊する。日本は資源がない国だからこそ知的に考えることで成長してきました。そして、情報が氾濫した時代において、情報それ自体に価値がなくなり、その情報をいかに使いこなせるか、既存の枠組みから新しいパラダイムを生み出せることが重要です。教育も今までの既存の枠にとらわれていては、時代の流れにおいていかれてしまいます。

だからこそ、新しいパラダイムを出せるよう、自分自身が異分子になりたいです。誰にも出来ないことに価値が生まれるのであれば、教育と社会の接点になりたい。これって実を言うとうちの学部の本来の姿!

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