2013年11月10日日曜日

大きく見せるな・人と比べるな

みなさん、こんばんは。今日はサイボウズのインターンに行ってきました。
このインターン、実はどこで申し込んだのかわからないのです。

いつの間にか、メールが来て、「多数の方にご応募いただき、抽選させていただいた結果、
あなたには是非ご参加いただきたいと思います。」なんてきて。

正直、サイボウズってなんなんやって感じで、この会社のこと全く調べずにやってきて、
毎度おなじみ、グループディスカッションとプレゼン、懇親会の流れ。

グループディスカッションの前にサイボウズによるグループディスカッションの講義がありました。
チームワークの効果を最大に発揮するためにどのようにしたらいいかということを色々と語られました。今までに聞いたことがないこともあって面白かったです。勿論、ありきたりというか、ロジックツリーや3Cや4Pといったものも教わりましたが。。。

GDのお題は、各班から好きなお題を考えて、自分がやりたいところに立候補するというもので、僕は「サークルのモチベーションをいかに高めるべきかということについて考えた。

話の内容自体は正直、抽象的な結論となり、結果、色々と叩かれました(笑)
班内から意見は活発に、GDの進め方としてスタートはよかったものの、理想と現実のギャップをしっかりと踏まえることが出来なかったということが反省点です。

そしてプレゼン。スライドの見やすさを結構褒められました^_^;
さすが、プレゼンを極めただけのことはあると自分でも〇〇、、調子に乗りすぎは駄目ですね(笑)


そして、懇親会。ここでこの会社の副社長のお話がためになりました。


就活における心得。「自分を自分以上に見せるな」ということ。
どういうことだろう。副社長は色んな学生と面接をしてきた経験から、
みんないいことしか言わないという。不自然なくらいに、「私は○○サークルで部長をやっていました」「学生団体のリーダーをやっていました。」確かに想像するとほんまかいと言いたくなる。

要するにみんな今の自分以上のことを言おうとするのだ。
しかし、実際、高々人間。そこまで大きくも変わらない。
高々学生なのだから。
勿論、就活の選考ではいかに自分の魅力を伝えるかがゴールだ。
だが、それだと苦しむのは自分だよっていう。
確かにそうだ。今の自分以上の実力を唄って入社したところで、
採用されて入って、求められる力を発揮することが出来ないのは惜しい。
しかも、本人にとってもそうだろう。

この副社長はだったら、「こんな自分でも雇ってくれるところ、認めてくれるところに入った方が断然いいに決まっている」という。なぜなら、こんな自分でも欲しがってくれるところ、すなわち、自分が必要とされるところに入れば、捨てられることはない。例え、会社の知名度が低くても、その中で自分の居場所があれば、十分じゃないか。

確かに、そうだ。僕を含めて多くの就活生は、自分をいいように見せようとして必死で、人気企業と呼ばれるところにエントリーして選考に入る。しかし、そこに入れる人間は本の一握りであるし、入ったとしても、優秀な選りすぐりの人材ばかりで、自分の実力で認めてもらうのは非常に難しい。


後もう一つ印象に残ったのは、「人と比べないこと」
人と比べても何もいいことないべ。確かに。僕たちは常に競争にさらされる。中学や高校では、成績に対して順位が付けられ、うまく得点を取れなければ、親や教師は「もっと、勉強しなさい」「あんた、こんなんじゃ、○○大学は入れないよ」とか。スポーツにしても芸術にしてもそうだろう。というか競争のない世界はほとんどない。
副社長はこのように言った。確かに人と比べることは必要だけど、あくまで、それは今の自分の実力を測るときだけにしなさいということ。それ以外の時は基本、比べるな。そんなことをしていると、常に自分に足かせのように重荷となって負担になる。でも、人生、長い目で見たら、そんな生き方より、今の自分を好きでいることも大切だって教えていただきました。確かにそうだなと。


色々と綴りましたが、自分で自分を縛っていることがある様な気がしたわけです。
おしまい








2013年10月21日月曜日

就活

久しぶりに投稿します。企業説明会やインターンに参加して、いろんな人に出会い、社会人の人と色んなお話が出来るのがすごく楽しいなと思うこのごろです。ここ2,3か月で視野がかなり広くなった気がします。

それにしても、自己分析なるものをして振り返ると、中途半端な自分がいることに気づかされる。サークルを二つ掛け持ちしたり、ボランティアで複数の学校に行ったり、アルバイトでチームリーダーしたり、講師、アドバイザーしたり。他にも色んなアルバイトした。上手くいくこともあれば、失敗することもあり。全体的に失敗が多かった気がする。学んでいることは、教育のことを色々と勉強したり、英文学、スポーツ生理学に興味を持ったり、プログラミングに嵌ったり、財政、マーケティングや会計に嵌ったり。趣味の絵画や音楽鑑賞やら。読書もいっぱいした。ジャンルが本当にいろんな分野に横断しすぎ。

大学に入る前の、とにかく色んなことをやるって、目標は達成した。しかし、振り返ってみたら、一貫性がないカオス人間になった気がする。逆に言えば引き出しはあるといえるか。

就活をしていて思ったことは採用されようと思わない。別に採用されないなら、自分で作ればいいんだって無謀なことを考える。これから安定を企業に求めるのは違うって色んな人が言っていた。大企業でもいつ倒産するかわからないし、すべてのものは栄え滅びる。今から必要なのは、自分にしかできない技術を身に付けるべきって話を何回も聞いた。でも、自分にしかできないことってなんやろう。よくわからないです。

今考えているのは敢えて営業不振に陥っている企業に入ること、知名度はそこまで高くないところに入ること、ベンチャーに入ることなどを考えています。この選択が正しいかわからないですが、某バイトで朝の5時まで仕事とか精神的にはなれているので、なんとかなる気がします。入って立て直しして、ビジネス経験を積んで、20年後くらいに教師になりたい。勿論、思考が20年もしたら変わるだろうから何とも言えないが。それにしても教員免許更新が鬱陶しい。

明日はインターンと某コンサルティング会社の選考です
とりあえず頑張ります!

2013年10月3日木曜日

将来の夢

久しぶりに投稿。ある記事にて、FBを毛嫌いしていましたが、まぁ、自慢でもなんでもないので投稿します。最近サークルの卒アルの仕事、就活、英語の勉強、読書としなければいけないことがけっこうありますまっつです。プレゼンで大切な核となるメッセージを全く押さえていない、今思っていることをずらっと書いてみました。プレゼンとして最悪ですが。

就活の為に色々とセミナーやインターンに参加しているのですが、周りにすごい人が多くて、劣等感みたいなものを感じる。グループ・ディスカッションの時に、うまく全体を仕切る立場に回れたら中心になれるが、そうでないとき、僕の場合は論理的に話そうとするとじっくりと考えないと意見が出ないから、ポンポン論理的に意見を出している人を見ると、焦る。そんな時に、僕は今回の問題は何かという前提から考え直す。そんな時、論点がずれているときに、ここはこういうことじゃないかと、うまく議論の舵を切れる。しかし、議論がうまく進むときは、とにかく頷いて笑顔で相槌を打ったりとしかできず。勿論、意見をぽつぽつと挟むが、やはり光らない。就活セミナーでお世話になっている方からは無理に自分を変える必要はない。自分の強みを磨こうといわれましたが、難しい。

生協のレポートプレゼン講座スタッフとして、チームのリーダーや全体の取りまとめを任された時も、正直なところ、しっかりと会議を運営できたのか?と疑問に思う。もちろん、会議は朝5時まで続くとかざらで、けっこうやって、結果的には一つのコンテンツを作成できた。勿論、最後の反省において、チームメンバーからは仕事が出来る人とか、リーダーとして成長してくれたとコメントを頂いたけれども、実際のところ、自分では、まだまだとしか思えない。毎回の会議の運営においても、夜中までありましたと頑張った感を確かに出せるかもしれないが、実際効率が悪すぎる。論理的にしっかりと最後まで仕切れたのかということも余り自信はない。先輩からも、たまに話が飛ぶよねと言われたり。講座の授業で講師をしていたとき、雰囲気や説明に関してはスタッフの方から褒めて頂いた一方、受講生に質問をした時の受け答えが少しずれてない?と言われたこともあった。どうせバカだから仕方ないのかもしれないですが。

色々失敗も多かったし、その反省から何がいけなかったのかを分析するために、ドラッカーの本やリーダーの資質の本、実際に経営に携わる人の本、プレゼンテーション、ビジネスマナーの本、フレームワークなど、色々と毎週のように本屋に通い、読み漁っていました。リーダーを任された時にこうしたらよかったのかとか思えることいっぱいあり、実践できる時は実践していますが、まだまだ。論理でうまく素早く組み立てる力に欠ける。

というわけで採用されるために、論理的にすぐに自分の意見をまとめる訓練をもっとしないといけないわけで、今後も頑張りたいのですが、無理に有名で大企業というようなところへ採用されようとするのも自分の生に会わない気がしました。というか、どこかで、自分を欲しい企業なんてあるの?と思います。まったくないこともないとは思いますが、文系って別に何か取り柄があるわけでもなく。ビジネスの世界で、ソネットや源氏物語、応用言語学とかまず使わない。

昨日も、セミナーがあったのですが、就活に対する僕の中でのイメージが変わりました。もう成長しきった企業に入るのは辞めようと。そして、これから成長するであろう企業やあまり認知されていない企業に入りたいと思いました。現在、マッキンゼーの大前さんやDeNAの南場さんなど、成功している人に共通していることは、あまり人気ではない企業や経営が傾いている企業に入社して、結果成功しているということ。もちろん、そんな企業なら、朝の何時まで働くみたいなブラックみたいな環境なのは避けられないかもしれないけど、その精神的なタフさはうちのバイトで経験したし苦ではないですが。ベンチャーの99%が失敗しているという話も今日誰かがいっていて、現実、そんなことがあるのかと危険も感じています。


お前何がしたいの?って思われる人もいるでしょう。教師になるとか言っていたくせにって。もちろん将来教師になりたい。しかし、社会に出てないし、社会についてしっかり知らないし、まだまだ未熟な自分に社会を語る資格はない。いくら専門の勉強したからと言っても、あくまで、仮説にすぎない。それに教師では現場を変えることに限界がある。やはり周辺の環境を整備できるだけの財力なりビジネスを企画しないと一向に解決しない。最も、人の心について介入したり、学校に介入しても、相手が生徒であれば、マーケットが小さい。

そんな会社でまずは何かビジネスにおいて成功したいです。しかし、その成功が目的ではないですが。

究極的には
①雇用を増やす
   ※教育水準を上げるためには必須
②居場所を作り、チャンスを与える
   ※その施設を通して社会で働けるようにする
③本を書いて、どんな人でも可能性があることを伝える
   ※教師になってしたかったことは本で書く
でしょうか。

要は人のためにひたすら尽くしたいだけです。社会をよくしたいだけ。偽善者と言われるかもしれないですが、松下幸之助や孫正義さんなど成功している人は、究極的に「社会の役に立ちたい」って言います。そのことをおかしくないかという人がいますが、僕の場合はおかしいとは思わない。これってすばらしいじゃんって。名誉や地位、私欲なんかに拘る様な人間になりたくない。そのことを僕も証明してみせる。絶対に!どうせ、理屈で語ったところで響かないから。


過去に自分がされたように一人でも多くの人に希望とチャンスを与えたい。

2013年10月1日火曜日

聞き上手・話し上手



久しぶりに臨床心理士であった故河合隼雄のカウンセリングに関する本を読んで、少し反省した訳です。聞き上手、共感姿勢。1回生の時、ユング心理学に嵌って、カウンセリングを学んだ。しかし、ある時から、その効果の曖昧性から、何かを起こすにはどう行動するかでしょう、そのための意見をしっかりと述べることでしょうって思った。どこかで橋下さんのように、自分の意見をひたすら論じるみたいなところが、かっこよく見えました。確かにグループディスカッション等においては、そんな人間が好かれるような傾向があるように思います。しかし、それでは相手の気持ちを汲み取ることなど出来なくて。いくら正論で相手に押しかけても人間というのは元々感情の塊。それに反抗したくなる。論理でひたすら正論ばかり語られても響かないわけで。確かにかっこいいが。

自分の場合、意見をひたすら論じることこそが出来ると知らぬ間に勘違いをしていたようです。だからと言って聞き役にだけ徹するのもどうかと思うが。困っている人に対して、正論だけを語るのは嫌われます。むしろ、その正論を一緒にこれどうなんだろうって言えるような関係が理想なのかもしれません。因果関係に落とし込むのが適切でないときもある。人間関係においてはなおさら。

2013年9月28日土曜日

将来について色々と

某コンサルティング会社の説明会に行ってきました(^o^)プレゼンが非常にうまくて、プレゼンについて色々とあんなかっこいい人になりたいと思いました。海外でも仕事が出来るというのは魅力を感じました。

何をしたいかが漸くつかめてきた気がします。教師は勿論成長する教師ってよく言うけど、現実どうよって突っ込みたい。今はバイトでの経験もあり、もう少し成長したいということで20代はビジネスに関しての自主トレです。

目標:
・出来ないという子を優秀な人材へする手助け(要は方法論)
・教育と社会のリンク
・初めから可能性を否定すること自体がまちがいであることを証明する
・一見可能と思われないことを複数のモノを組み合わせて解決する
・想像力を!(思いやりみたいな)なぜなら、民主党の鳩山さんやみのもんたさんのページ見たらわかるように、コメント欄にひどい言葉ばかり書かれている。しかし、そんな風に書くのは、虐めともいえるし、レベルが子供のあかし。

最近考えていることですが、
20代⇒数年就職・MBA
   紆余曲折を経て、まずは大きく幅広く世界知ろう!
   ビジネスのノウハウを知る期間
   信頼できる二人作る※信頼できる親友と呼べるような人は未だ一人   しかいない。
   
30代⇒起業
    教育事業+α何か儲かりそうなものでビジネスする 
    経営での困難⇒何らかの方法で克服
    金儲け(お金がないと何も変わらない)    
40代⇒施設作り・子供と関わる・ボランティア
   【行いたいこと】
   ①雇用の創出
     雇用がなければ家計が苦しい人は
     子供に十分な教育を与えられない。
     雇用が増えれば、子供に適切と言えるかわからないが、
     少なくとも虐待は減る。十分な教育保障に一部つながる
   ②社会と教育のリンク
     今の教育は5教科に特化して詰め込み。しかし、現実必要にな     るのはコミュニケーション能力やプレゼンスキル、議論をする     力だったりと、大きな乖離がある。だから、教育においてビジ     ネスを学ぶ機会を創出したい。具体的ケースを議論したり、お     金について、学べる機会を。
   ③どんな人にも可能性があるってことを示せたらな~(野望)
     水谷修さんのようになりたい。

50代⇒事業拡大・ボランティア
    学校サポート体制
    施設の増加・雇用創出
  
60代⇒海外進出・ボランティア
    カンボジアなど、教育が十分に整備されていないところへ
    島田紳介みたいに学校立てる(野望)
    ※2050年代の話なのでパラダイムが大きく変わっているかも

70代⇒ボランティア・趣味の油絵・デッサンで個展を開く
  老害にすぎないから、代表取締役的なポジションは降りる
  ひたすらマザーテレサになる

80代
動けば⇒70台に同じ
体が動かないとき⇒多分宇宙に行けるようになっているはずだから、宇宙へ旅立つ⇒無重力状態のせいで骨粗鬆症になり、体中ポキポキ→病院行き→人の迷惑になりたくないから、自分からお墓へさようなら    

このキャリアを実現するうえで、結婚はないかなぁ。いい人がいれば別ですが、こちらから求めることはないと思う。結婚相手に求める条件は冒険好きな人かなぁ。事業が失敗したら一緒に借金背負う覚悟がある人がいいです。はい、そんな借金背負う覚悟がある女性なんていないですよね(笑)

ビジネスって、本当に冒険ですね。ということを最近すごく感じています。要は正しいことって存在しない。一見すると間違って見えることも、意外と成功したり、成功しないときもある。個人的には常にエンジョイアブルしたい。小学校の3年時にヘロヘロ君という劇をしましたが、お客さんが喜ぶ姿が本当に忘れられない。あんなふうにenjoyableにしたいわけです。昨年はスクエアダンスとラウンドダンスで主に1回生あてに色々と暴れたわけですが、結局は自分がenjoyableしたかった。だから、クイズを取り入れたり、シンギングをしたりと好き放題しました。

要は個人的にわくわくしたい。でも、これは要はお前子供ジャンってなりかねない。幼稚は格好悪い。でも、まじめすぎるのも面白くない。上に書いたことっていうのは、かなり真面目。やりたいことというのも、まぁ、悪いことを考えていないだけいいけど、面白みがない。だから、僕はお笑いの要素を足していきたいわけです。笑いにより人は元気になる。でも、笑いを取るって案外難しくて。バイトで講師として前でpptを使って授業している時も、受けるときと受けないときの差があり、それは何に起因するのだろうと考えたこともあったが、良くわからない。聞き手とプレゼンテーターの心のつながりというか、阿吽の呼吸というか。

人生でわくわくをする瞬間ってあるわけです。でも、なかなか限られる。
しかし、人はどこかでそのわくわくを求めている。

2013年9月27日金曜日

人の批評ほどうざいものはない

ある方のブログを読んでFacebookにての投稿を辞めてしまいました。
最近就活にて、かなりのビジネス(主にコンサル関係の本)に関する本を読んでいるのですが、結局、経営において大切なことって人によって全然違うわけで、いくら何かの行動の為に分析を行ったところで、何かを始めるときは、その通りに進むことなんてありえない。ある程度の分析から、その範囲内に落ち着くことはあっても現実何が起きるかわからない。最近売れている不格好経営という本にて、コンサルって実際にビジネスするうえであくまでアドバイス、実際に何かをやるとなると別ってことを知りました。ということは、人からアドバイスをもらうというのももちろん大切ですが、結局は自分。このことは今までの自分を振り返ってみてもそうだった気がする。実際、人に頼っている時に成功したことというのはなかった気がする。自分が選んだ道でこれでいけばなんとかなるみたいな、そんな自分の中の漠然とした直観に頼ってひたすらやった時に成功する気がする。要は人に頼っているようじゃまだまだで、人の成功例のアドバイスをそのまま鵜呑みにしてはいけない。

とまぁ、こういうことを色々と勉強していると、いかに人を語る人間というのが見苦しいかということがしみじみと感じられるわけです。評論するのは簡単です。でも、それが、まるで後付というか、結果が起きた後に、「あいつはこうだったからこうなったのだ」とか「あそこがいけなかったのですよね」とか。自分がその立場にいたら本当に問題は起きなかったのか?と考えてほしかったり。自分も時に人について語ることがあるわけですが、どこかで、自分に対してイライラするわけです。僕の場合は、うちのような大学に入ったことに対して、高校の時の学校の先生が語っているそうです。「こいつはなぁ、こんなに一生懸命やったんや。やから受かったんやで。努力したらきっと報われる」みたいな。でも、僕としてはすごく腹が立つわけです。努力しても必ずしも成功するとは限らない。勿論、その成功をどのように定義するかはおいておき、果たして社会に出て、いくら必死で残業をしているからと言って、必ずしも、昇給できるとも限らないし。どこかで、冷めているのかもしれないですが。しかし、そんなこと言うなら、自分でやってみろよって思うわけです。

なんやかんや今までを振り返ると本当に失敗が多い。必死でやれば、勿論周囲の人は納得してくれる。しかし、結果を出せなければ意味がなく、出せないなら、いくら主体的に出たところでアウトです。今までの2年半くらいを振り返ってみると、色んな意味で失敗が多かった。勿論、成功して人から良かったねと評価されることはあったが、どちらかといえば、失敗だらけだ。アルバイト先でのチームリーダーとしての会議の運営やリーダーシップ、マネジメント、、、あげれば切がない。その失敗が起きないためにどうしたらいいかということも徹底的に本を読み実践できるところは直してきたが、勿論まだまだ不十分なのは自覚している。

勿論、失敗は成功の元とかいうが、でも、失敗は失敗。負けは負け。亡くなった祖父から「勝つんや」って言われたことだけは今も鮮明に覚えている。でも、確かに仰せのとおり。結局結果を出さなければ意味がない。失敗を美化して後から、あの失敗があるから今のキミがいるんだって結局は結果論。綺麗事にすぎない。自分で実現したい夢や想いを語るのは、僕は良いと思う。なぜなら、そのことによって、思いを共有できるわけで、少しでも賛成してくれる人が出れば何かを生む。一つの結果を生む。しかし、何もそれに携わらない人がいうのは違う。横から、「お前のしていることは何々に過ぎない」って、批評するのはいかがなものかと思う。

後、先入観を持たないこと。人間先入観を持って人を見る。「お前にはこれは出来ない」とか「見た目からして、お前にこの仕事は出来ん」とかいうような人間。ほとんどの人間はこの先入観にとらわれすぎていると思う。しかし、実際どうなのか。僕の場合は愚かさの骨頂であると考える。なぜなら、その人間の通ってきたことを何一つ考えない、想像力の欠けた行為であると考えるからだ。高々、人間のできることなど限られている。例えば、就活において、ある人事の方が、所詮大学生のしてきたことなど、似通っているし、大した違いはないという。事実そうだろう。考えるプロセスなどは多少は異なるにせよ、発想や考え方それ自体に大きな考えが出せるかというとはなはだ疑問である。

要は、先入観を持つな。批評家になるな。自分の直観を信じよ。失敗は失敗。成功は成功。

核となるメッセージがすごく漠然としていますが、心のそこで感じている思いをそのまま綴ってみました。

2013年9月25日水曜日

These days I often go to business seminers and company explanatory meetings, getting to know more and more about business worlds!!! It is very excitingggg! and realize how faraway the gap between what we are taught at school and what is happening in this real world.........So instead of being a teacher, I decided to do job hunting in order to fill the gap between education and society. For the first periods of my career, I work at some company and learn what is needed in business. After that, I wanna do some business, and link education and business, giving chances to everyone. Maybe difficult, but as Steve Jobs said "follow your heart and intuition", there must be some possibilities!!!

2013年9月18日水曜日

将来について

企業によって雰囲気とか、目的意識が全然違うことに驚く日々この頃です。数年間働いてからの教員人生の方がいいと個人的に考えつつ、しかし、社会で働いたからと言って、それを子供とリンクできるのかということに少しギャップを感じます。その道のプロになるためには、一つのことに必死にならないと駄目であることは過去の経験から気づいている、かつ日本という社会が転職を好まない社会。しかし、だからと言って、既存のルートを歩んでいたら、新しいことを起こすのは難しい。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチでconnecting the dotsっていうのが出てきます。彼は大学の授業が無味乾燥に思えて、哲学やカリグラフィーなど、色んなことに手を出したわけですが、結果的にスピーチの中でああした経験がなければ、アップルの成功はなかったという風に言っています。そして、"Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later."って言っています。要は今はわからなくても、10年後とかから振り返れば、何かスッキリするさってことです。

今の自分もまさにそんな感じなのでしょうか。ある意味そうなろうとしていたところがあります。1回の初めは踊りに少し惚れたものの、後期からマジックに惚れ、ユングやフロイトの精神分析・水谷修さんに興味を持ったり、2回生になったら、スクエアダンスを通して、人を楽しませるこのに力を入れたり、後期にはまた関心が変わって、バイトを通して、プレゼンや授業づくりやリーダーシップに興味を持ち、そうした本を読みまくったり(リーダーとしてはまだまだですが)、3回生になったら社会で活躍されている方のお話を聞いて、ビジネス関係の本を買ったり、バイト先での組織運営の在り方とか、そうしたものを学んできました。今はとにかく資格試験の勉強やビジネスマナーの本、ボディ・ビルディング、ヨガ、ランニング等の体力づくり、美術、サークルの卒アルの整理など色々と。

ただ、人から見ると広々とやりすぎていて、何をしているのかわからないと思われることもよくあります。組織に属すという観点からするとあまり使えないと思われるでしょうし、自身それなら、そう見てくださいと思うしかないわけです。そうなるに至る原因は自分で作ったのだから仕方ないのです。

話は初めに戻りますが、どうでしょうか?社会に出るべきでしょうか?いろんな方に相談して、結局最後は自分でなんとかしろという話だと思うので。何か新しい風を吹かせたいという漠然とした思いをもう少し具体的に洗い出さないといけないかもしれません。僕がしたいのは、ただ、人に尽くせる場所にいれたらそれでいい。なぜなら、それでしか、自分の存在意味を見いだせないからです。名誉や地位で人が幸せにならないわけで。誰かに与えられないなら、自分が死んだときに、人生を振り返って何が残るか僕自身には理解できないです。ここでいう与えるというのは精神的な意味においてです。アインシュタインやヘレンケラーといった人物も「人に与える人生こそが素晴らしい」という風に述べています。

しかし、その方法は新しいやり方がいい。今までに誰もしたことのない新しい価値を生み出したいです。せっかく、こんな大学に入れたわけですから、何か新しい価値や考え、行動をしないと。異分子になるということは、逆に攻撃をうけまくるということですが。でも、必ずしも、既存のパラダイムが正しいということはなく、時代や環境によって、その解釈はガラリと変わってしまいます。例えば、デカルトが二元論を打ち出した時から、その流れが近代科学へと繋がり、既存の正しいと信じられたやり方がひっくり返りました。日本なら、例えば、明治時代において伝統的な漢方が、西洋医療のせいで否定されたりと。

この辺で終わります

2013年9月16日月曜日

ドクター・マクスウェル・モルツとサイコ・サイバネティクス



0.はじめに
今日はドクター・マクスウェル・モルツという人物を紹介したいと思います。テーマはサイコサイバネティクスです。私は今までにも自分のとらえ方を出来るだけポジティブに捉えることが大切であるということを今までに何回か書かせていただきました。そのことをさらに深めてみたいと思います。

彼についてご存じでない方も多いと思いますので、簡単に略歴を紹介します。モルツ博士は1899年にニューヨークに生まれ、1975年に76歳で没しています。1921年にコロンビア大学で学士号を、1923年に同大学内科・外科カレッジで医学の博士号を取得。ドイツで形成外科の臨床研修を経た後、再びニューヨークの病院で形成外科に携わります。その後、数多くの患者とのカウンセリングを通して発見した知見を、サイコサイバネティクスという独自の成功法則として構築しました。

サイコサイバネティクスという言葉が出てきました。この理論こそが、多くの人に注目された要因です。具体的には、自分のセルフ・イメージが自分を規定してしまうということです。すなわち、自分が思い込んでいるような人間になってしまうということです。では、どうして、このようになってしまうのでしょうか?このことについて、彼のエピソードについて、書こうと思います。

1.サイコサイバネティクス(phyco-cybernetics)という理論が生まれたきっかけ
これは、モルツ氏が形成外科の時に起きたお話です。アンナという患者がモルツ氏のもとにやってきました。モルツ氏は名医で、沢山の患者の外傷を直してきたということもあり、今回もすぐに何とかなるであろうと考えて治療に臨みます。

アンナは事故によって、顔に大きな外傷を追ってやってきました。モルツ氏は、いつものように治療して、結果的に顔の傷は綺麗に治りました。しかし、鏡で自分の顔を見たときのアンナは「違う」と言います。

何が違うのかということが、モルツ氏には理解が出来なかったのですが、のちにその理由が母親から教えてもらえます。アンナの母親はアンナが交通事故の直前まで、ある男性と婚約していたこと、そして、
事故で顔に大きな傷ができてしまったのをきっかけに、男性に逃げられてしまったことを話した。できることならこんな話は誰にもしたくはないが、愛する娘の顔の傷を治してくれた恩人ということもあり、母はつい口を滑らせてしまった。

そのことを聞いて、モルツ氏はアンナに直接かたりかけました。
「アンナ、顔の傷はもうなくなったのだよ。もう綺麗な元通りの顔に戻ったのだよ。」
「でも、彼はもう戻ってきません…」
「アンナ、君は自分が悪いと言っていたけれど、自分を責めているのかい?」
「…」「ええ、そうですね。自分が嫌いです。なんで事故なんて起こしてしまったのだろうと・・・、今でもそのことばかりが頭をよぎります。」
「アンナ、なぜ、自分を責めるんだい。逃げたのは君じゃなくて彼の方じゃないか。なんで他人がやったことで自分を責めなければならないんだい?」

モルツ氏は熱い口調になって問いかけた。彼にとってみると、他人の起こした事件によって、自分を責めたり、後悔すること自体がばかばかしく思えた。

暫く、アンナは黙ってしまいます。そしてこの際の面会は終わりにして帰ろうとしたときに、アンナは「頑張ってみます。先生、今日はありがとうございました。」と伝えた。

その後、モルツ氏は、自分が直したのは外傷であったが、アンナに必要だったのは心の傷ではないかと。そして、医師として、心の傷を治すことも必要ではないかと考えるようになりました。

その後、病院で忙しく働いているときに、アンナがやってきます。半年前に会ったのが最後で、満面の笑みを浮かべていたこともあり、誰かが分からなかったそうです。

アンナはあの日以来少しずつ自分を変えていきました。元に戻らないで自分を責めるのは辞め、ポジティブに物事を捉えるようになりました。

この経験をもとにモルツ氏は一冊の本『サイコサイバネティクス』という本を出版します。

2.モルツ氏の発見したサイコサイバネティクス
サイコサイバネティクスという理論は主に二つのことが基盤としてあります。

2-a.セルフイメージこそが自分を規定する
2-b人間の脳には自動的に成功を追い求めるメカニズム(A.S.M)が組み込まれている

このことについて簡単に説明したいと思います。

2-aセルフイメージにより規定される
私たちは、自分に対して何らかのイメージを持っていると思います。


3.私自身の問題意識

4.これからの時代において求められるもの








facebookの更新を辞めたわけ

Facebookに更新を辞めたわけを書こうと思います。けっこう使っている人は御免なさい。そういう方は、読んでいて心苦しいところもあるかもしれないので、そういう人はお前ひねくれているわみたいに思って下さい。

facebookといえば、皆さん、どういうことをあげますか?

旅行に行った写真、自分の食べたご飯、自分の可愛いorかっこいい写真
友達とふざけている写真、日々思っていること、自分が体験したこと、
勉強になったサイトのURL

などなど、あげると切がないと思います。
一つ聞きます。皆さんはどうしてそうしたものをあげるのですか?

・親や友達に自分の近状を伝えるため
・enjoyしていることを示すため
・自分の考えをみんなに知らしめるため
・周囲に自慢するため
・友達が多いことを誇示するため
・「いいね」によって、今の自分を肯定するため
・いい考えを広めるため
・知り合いとのつながり維持

他にも色々とあると思うのですがだいたいこんなかんじだと思います。僕の場合は「近状を伝えること」「繋がり維持」というのが大きいと思うのですが、最近は時間の無駄としか思わなくなりました。

確かに近状を伝えることって大切だとは思うのですが、それならば、全員に公開されるfacebook(もちろん非表示にする機能もあるが)にあげるよりいい方法が他にあると思うのです。facebookより電話で話しり、会って話す、あるいは手紙を書く方がいいと思うのです。その方が思いが伝わります。また、会った時に話題が尽きないと思うのです。というのもfacebookにあげてしまうと、もうその人が何をしたのかが一目でわかってしまうために、会った時に会話でわかることが少なくなります。

さて、だらだらしたので、簡潔に僕がfacebookに嫌気がさしたのは以下です。

(A)時間の無駄
(B)読み手からしたら不愉快
(C)自己愛

(A)
僕自身余り今まで認識していなかったのですが、なんやかんだで、この時間意外と長いですよ。


(B)
読み手の立場になってみて考えていただきたいです。例えば、誰かが自分の食べた料理をアップしたと思います。皆さんからするとどのように思いますか?僕だったら「お前の腹の中に入った料理とか興味ないわ。」って思うんじゃないかと思うのですがいかがでしょう。

また、ある人が「私、広島行きました!○○を見に行って、友達と遊んでめっちゃ楽しかった!」「海外に遊んできます」…って感じで写真まで貼っているとします。皆さんはどう思いますか?この子enjoyしているわ~。「いいな」⇒「いいね」ボタン。。。。このプロセスってある意味羨望や嫉妬の的になるのでは?こいつはいいなって。それが、こいつばっかりいい思いしやがって。。。。となるのではないかと思うのです。


(C)
最近思うことの一つとして、自分がどんだけ可愛いのかという話です。心理学的には自己愛とも言います。アップするのは良いですが、自分の写真を色々とアップして、他人から「いいね」といってもらうのは何か違うのではないでしょうか?そんなに自分のことを肯定したいのかというのが、相手に伝わるような気がするのです。ただ、これはひたすら、私ってすごいでしょ、みたいな。

勿論、人によって捉え方は変わるので一概にこうだということは出来ません。勿論いい面もあることは確かです。しかし、私の場合はここに挙げたうち後半の二つに嫌気がさしたわけです。何かいいとらえかたはないでしょうかね?










What is the leadership?

 
    Today I would like to talk about leadership.These days or From the time immemorial, it is said that leadership is important. Because they will change our society.My faculty integrated human studies, is also saying our purpose or policy of education is to make students have the leadership.
By the way,What is leadership?
     Who do you come up with who have the skills of leadership?Maybe there are some people you will soon come up with. There are many people who have the leadership from the past. I think the person of leadership is those who can form an agreement. You may wonder what this means.
I’d like to explain about it. 
These people are some examples. Like Kim jyonnwill who moves the politics of North Korea, Hittora-, who controlled  German people, and he is very good at speaking, Tojyo Hideki who conducted war during the World War 2. Recently, some people say Hashimoto Tooru have the skills of leadership like Hittora-He is often associated with Hitra-. As these people shows leadership is often associated with those who are like dictators. I think this is true, but recently I think what is needed for leader is changing now.
    My former image of leadership is like this figure1. There is a person who have strong force and can move many people. Furthermore they can take some great action. Many people think leader is like that. He is admired and often called charisma.
figure1

My image of leadership is like figure2. There is one person. He communicate with other people and tell their ideas to another person and vice versa. Through series of communications, he will reach an agreement. After that he will gather ideas from various people and take some actions. This is my image of leader.
figure2
These days thanks to the Internet, many people can express their ideas to other people.
Each person has different ideas and values. In order to take some action in this society, first of all we have to unite different ideas. For example ,at first, they hold some meetings and exchange ideas and make an agreement. Then they will tell the ideas to other people and reach an agreement

In conclusion, I suppose the skill of leadership is to form an agreement. This ability is needed in many fields such as insurance company, consultant company, sports education, and so on. In short, the companies, whose tasks include communication with other people. There are many service industry, so it is needed. For the outlook for future, in Japan there are few classes whose styles are discussion. So it is necessary to make classes for communication and improve the skills of leadership in Japanese education. Thank you for reading.

正負の法則



今日は正負の法則ということについて、皆さんと共有したいと思います。
三輪明宏さんの著書である『ああ正負の法則』ということについて見ていきます。
この本の中で正負の法則ということが述べられています。どういうことかと言いますと、「いいことが続けば、悪いことも起きる」、「悪いことが続けばいいことが起きる」ということです。私自身この本を読んだときは非常に確かにそうだなと感じました。


(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%82%E6%AD%A3%E8%B2%A0%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E7%BE%8E%E8%BC%AA-%E6%98%8E%E5%AE%8F/dp/4891946458

要は、生きている間に「プラスマイナスゼロ」になるということ。いいことがあれば、その分悪いことも付随してくるし、悪いことが続いても、きっといいことが生きるということ。この宇宙は「陰と陽」の関係で成り立っているというわけです。

私自身今までの人生を振り返ってみてもそのような波があったように思います。私の場合は、小学校の時に喘息で学校を休みがちで入退院を繰り返しており、運動をあまりしてこなかった。おかげさまで、中学校、高校、大学と様々なところでスポーツがあまり得意ではなかった。また、勉強もまともにやっていなかったこともあり、中学校に入ったときの最初のテストは最下位に近く、非常に困った。また、虐めや不登校といったこともあり、私は学校の先生や親から普通の子ではありえないくらい、すごく手助けしてもらった。私自身、そうした手助けと自分を変えようと思ってひたすら努力してきたこともあり、学校の中でも、成績はだんだんと上位になり、親をはじめとして多くの人に「頑張ったね」っていってもらった。そして、その中で、人の好さというか、愛というか、そうしたものもいっぱい与えてもらったし、必死で人に尽くすことの大切さとか、虐められている子がどんな気持ちかとか、不登校の子がどんな気持ちでいるのかということ(もちろん一般化は出来ないが)を身をもって学んだ。

結果的に私自身は紆余曲折を経たわけであるが、普通の人が体験できない経験や感動を味わうことが出来たし、普通の人が困らないところで一杯困ったこともあった。これからは、この経験から得たことをどのような形で社会に還元できるかというのが課題です。私は困っている人、弱者を救いたいという思いが強いです。

要は得たものと失ったもの両方あり、それをプラスマイナス足し合わせると結局ゼロになると思うのです。

さて、最近のニュースに関して一番ホットなのは、テレビの司会者であり、フリーアナウンサーであり、タレントでもある、みのもんたさんの話題であると思います。みのもんたといえば、テレビ界においては超大物の人間で、年収が40億から50億とも言われています。『みのもんた朝ズバっ』においてかかる時給が300万円と言われています。(※勿論、この大部分は、税金で持って行かれるのですが)。私が子供のころから慣れ親しんだ方でしたが、二男が窃盗容疑の為に逮捕を受け、自身のレギュラー番組であった『みのもんたの朝ズバッ!』と『みのもんたのサタデーずばッと』への出演を自粛すると発表しました。また、痴漢未遂の疑いもかけられており、Utubeでかなりそうした動画がアップされていて、コメント欄には物凄いバッシング。かなり、この夏に起きた問題は大きな転機になってしまったと思います。私自身は、バッシングの言葉を見て、この言葉を発している人に対して憤りを感じずにはいられませんでした。なぜかというと、確かにやったことは間違いだったと思います。そのことについて、責任は問われるべきであると思います。しかし、「死ね」とか「消えろ」とかそうした言葉は本人に対する人権侵害であると同時に何の生産性もないからです。感情的に責めたところでどうしようもないでしょうし。この事件から、勿論、結果論でしかないので直接的には言えないですが、正負の法則が働いているように思われます。かなり、メディアの世界において、最高の地位に付け、多くの人に愛されて(多くの国民に知られるような存在)いましたが、今回ものすごい数のバッシングがありました。

他にも、島田紳助さんの時も、すごいトーク力によって国民から支持を得ていたにもかかわらず、暴力団との接触によって、あっさりと芸能界から引退してしまったり。

歴史的に視たときはどうなのでしょうか。例えばフランスのマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(1755-1793)は彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたり、また無類の浪費家でギャンブルに耽った。結果的に多くの人の不満や憎しみを買い、最終的にはギロチンによる処刑です。また、ナポレオン・ボナパルトはフランス革命後の混乱を収束させ、軍事独裁体制を敷き、イギリスを除く、ヨーロッパの大半を制圧するわけですが、最終的にワーテルローの戦いで敗北、セントヘレナ島に幽閉されてしまいます。

こうしたように歴史的に視ても、正と負の両方の側面を理解できます。

そこで、何が必要かというと、とにかく、自分から負を先払いすることが大切だそうです。どういうことかというと、とにかく、世のため人のためです。その中で、愛を誰かに与えることを通して、先に負を先払いするのです。口で言うのは簡単ですが、実際は難しい。

それこそマザーテレサは人に与え続けた人の典型です。だからこそ、ノーベル平和賞を受賞したり、今なお数多くの人に愛されていますし、尊敬されています。

そこで、私自身は?私自身も、もっと与えないといけないと考えています。ですが、その方法が時に不明瞭になることがあるのですが、私はとにかく仕事に尽くすことであると考えています。結局のところ、自分のすることに真剣になれば結果的に誰かにいい影響を与えられるのではないかということです。例えば、私のサークルを挙げてみると、踊りを極めた人は下の人から尊敬されます。また、私の場合、教育の知見を色々と勉強してきたので、結果的にそうした人たちからなるほど、そんな考えもあるのがーって思っていただいて、会えてよかったといってもらえるのが非常にうれしいです。また、私が受け持ったパソコンの授業にしても、うまく教えることによって結果的に全体の雰囲気をよくしたり、他のスタッフから人気講師ですね、参考にしたいですっていってもらえたりと。他にも、私の勉強への姿勢を兄弟が真似してくれたり。

要するに何が言いたいかと言いますと、自分のやっていることに精を出すということ。それが結局、誰かに与えることなのかと思います。勿論、マザーテレサのようなことを出来る人は数少ないと思いますし、また、みのもんたや島田紳助のようになることは難しいと思います。しかし彼らに共通するのは目の前のことに熱心であることです。

さて、正負の法則という話からいかに生きるかという話題になってしまいましたが、何か参考にしてもらえると幸いです。私自身、何か皆さんに新たな発想を知らない人に提示していきたいと思います。








偉大な教師の条件とは


今日は偉大な教師の条件ということについて考えてみたいと思います。私自身偉大な教師と思える人は少なかったように思うのですが、その中で共通して言えることは、知識を教えるだけではないということです。よく学校の先生というものは、教科書に書いてあることから授業を組み立てて、日々の授業を組み立てていますが、それでは一流のプロとは言えないでしょう。

本当に生徒の記憶に残るような教師というのは、命がけのようなところがあったと思います。
ウィリアム・アーサー・ウォード(1921― 1994)というアメリカの詩人であり、牧師であり、教師だった人物はこのような言葉を残しています。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.
—William Arthur Ward

「普通の教師は、言わなければならないことを喋る。良い教師は、生徒に分かるように解説する。優れた教師は、自らやってみせる。そして、本当に偉大な教師というのは、生徒の心に火をつける」ということですが、私の考えと一致するような気がします。

では、どうしたらinspireできるのでしょうか?この答えは人により区々(まちまち)なところがあると思います。武田鉄也主演のテレビドラマ「金八先生」に出てくるような教師像は確かに理想形でしょう。

あのドラマは1979年から2011年までの32年間にかけて、TBSにおいて断続的に制作・放送されたということもあり、視聴率もかなり高かったからこそ続いたのだと思います。また、国民から理想の教師の在り方と捉えられていた一面もあるのではないでしょうか。他にも学園をテーマにした様々なドラマ、例えば、天海祐希主演の「女王の教室」や「野ブタをプロデュース」、「生徒諸君」など数えるときりがありません。

しかし、現場の先生や大学の教授など多くの人はあんなことは現実化しないと言います。確かにテレビドラマはたいてい10話程度で終わってしまうという点でシリーズが始まってから、終わるまでにかかる時間はそんなに長くはありません。一方で現場は中学校や高校が3年、中高一貫校であれば6年というかなり長い時間がかかってしまいます。そして、虐めや不登校といった何か問題が起きた時、ドラマであれば、1話か2話程度のたったの2時間の中で解決されてしまうのかもしれませんが、現実はそうではありません。そうした問題を解決するには、短くても1年とか長くて3年とか、それ以上になってしまうわけです。

おそらく学校の先生からしたら、そんなことは綺麗ごとに過ぎないとしか考えていないと思います。私たちの多くは、テレビの影響によって、「こんな先生がいまは現場にいない」とか考えてしまいがちですが、現実問題として難しい。確かにテレビで描かれているような、一人の革新的な先生といいますか、今までの既存のやり方から何かを変えられる教師像というのは本当にいたらいいなとは思うわけですが、現実問題として出来る先生はほとんどいないです。現場の先生は時間的にも個人に対して割く時間というのはほとんどないはずです。

ということは何か別の現実的にも実践できる理想の教師像というものを考えて行く必要があるわけです。だからと言って、それは既存のやり方で解決できるようなものでもない。時代が変われば、求められる教師像も変わって当然だからです。

初めに「inspire」させることこそが、大切であるというお話をしました。そこで、私が必要だと考える教師像として、以下の二点を挙げたいと思います。(勿論、これは個人で考えている意見に過ぎないので絶対的なものではありません。)

一つ目は、複眼的思考を身に付けるということ
二つ目は、信頼関係を築くことができるということ
三つ目は、潜在的可能性を引き出すということ

それぞれについて、次回から見ていきたいと思います













2013年9月13日金曜日

放射線と総合人間問題

It is very good for us to hold the Olympic games. I was moved by the English speech because every speaker was able to express their enthusiasm!!!!!!! However, whether the environmental radioactivity level in Tokyo is safe or harmful remains unclear. Nuclear Regulation Authority shows survey about this. From this data, we soon realize the level is not as low as other cities....... Later, some countries blame it of one problem....
※[Readings of environmental radioactivity level by prefecture (Fallout)]
([July, 2013])

東京的放射能的水平與其他的城市比較的話,相當高(貴)。儘管如此,用演說把放射能的水平稱為著安全,不過,從後邊開始這個那個地快要被指出了。

Yeah, these days, I am thinking about how I should live my life.... I began to search some information about companies or corporation. There are too many jobs, which sometimes makes me irritating because the difference between the similar companies are ambiguous. ...... On Sunday, I was able to meet friends when in high school and listened to her job hunting. Although I had a very wonderful time, I supposed it will be hard for me....

By the way, I have some wonder toward my faculty of Integrated Human Studies. Generalist or Specialist.  Maybe, each person is needed. However, for those who live their life with only one skills, such as law expert, doctor, and so on, will prefer the latter to the former.  I guess whether we are accepted is based on the perspectives of interviewer. .......

https://www.facebook.com/matsuo.kohei.1?ref=tn_tnmn#

2013年9月11日水曜日

教育に欠けている視点「世渡り力」

岡野雅行さんの本「人生は勉強より『世渡り力』だ!」(青春出版社、2008)を読みました。他人には出来ないことを磨くということに凄く感銘を受ける一方、学校の先生への鋭い批判も書かれていました。学校で教わる勉強なんて何の役にも立たないかもしれない。実際にうまく世渡りするためには人脈や仕事への熱意とかが必要ですが、そうしたものを学校教育で教わってできるかというとそんなはずない。確かにそうかもしれません。

大学の勉強にしても、例えば経済学を学んだところで、実社会で活かそうと思っても何が起きるかわからないのが現実。心理学にしても、人の心が読めるわけでもなく。実際に、企業の人は大学の学問が仕事するうえで役に立つなんて思っていないそうです。

インターネットを通して情報が溢れていることを踏まえたら、大学という場所が特別な機関ではない。これからの時代に求められるのは、新しい価値や考え方、モノを生み出すこと、あるいは人と繋がる世渡り力ということかもしれません。

就職活動をする中で、学校の価値観「みんなのいいところを見ましょう」とか語っても、生きる力には恐らく直結しないです。もちろん、道徳という側面から見てみるとものすごく意味のあることだと僕自身思いますが、果たしてどこまで響くのでしょうか。所詮は、社会に出たことのない人間が何かいっているわとか、そんなかんじでしか受け取られないのではないでしょうか。となるとしたら、学校の存在理由がよくわからなくなるわけです。協調性・思いやりを育んだりするという徳育の観点では確かに教育は大切。しかし、陶冶という観点からすると、本当に学校は必要なのでしょうか?

僕が学校教育に欠けているのは、社会で生きる世渡り力を育むことにあると思います。学校のやり方では、絶対に身に付きません。学校と社会をつなげられる人間になりたいと思います。なぜなら、ここは今までにまだ誰も成し遂げきれていないから。だったら、ここでプロットすることで、逆に新しいパラダイムを生み出せるような気がするのです。(パラダイム⇒科学・哲学者トマス・クーン)

といっても、現場は反抗するであろうし、社会からはよく思われないと思います。なぜか、既存のやり方に完全にしがみついてしまっているからです。何か自分とは違う異分子を見つけたら、当然自分たちの縄張りを守るために攻撃するでしょう。しかし、私は、今の教育はあかんと思う。

今のままだと日本が崩壊する。日本は資源がない国だからこそ知的に考えることで成長してきました。そして、情報が氾濫した時代において、情報それ自体に価値がなくなり、その情報をいかに使いこなせるか、既存の枠組みから新しいパラダイムを生み出せることが重要です。教育も今までの既存の枠にとらわれていては、時代の流れにおいていかれてしまいます。

だからこそ、新しいパラダイムを出せるよう、自分自身が異分子になりたいです。誰にも出来ないことに価値が生まれるのであれば、教育と社会の接点になりたい。これって実を言うとうちの学部の本来の姿!

2013年8月26日月曜日

今学んでいるビジネスについて

ビジネスにおける交渉術やチームにおけるリーダーシップ、マナー、組織運営、ドラッカー等の本を読みまくり、勉強不足のためにうまく行動がとれなかったと深く後悔致しました。迷惑をかけた方に、深くお詫びします。

美術に親しんだことも一因かもしれないですが、創造的なものこそが素晴らしいって考えを基準に今まで考えていたところがあり、あらゆるものにそうした価値観を押し付けていたような気がします。確かにそうした価値って、時に必要になるけれども、いつもそのようになるとは限らず。とりあえず、驕り高ぶらないこと。自分を絶対に考えないこと。ひょっとすると、自分が間違っているかもしれないし、勿論相手が間違っているかもしれないし、本当に客観的に測るって人間関係ではありえないのだから。常に謙虚にいたいものです。

2013年8月17日土曜日

夏やっていること

最近、ヨガ・瞑想・漢方薬・料理・筋トレ・エアロビクス・発声・呼吸法・ストレッチングを学び・実践しています。来週からずっとやりたかったフルートに手を付けてみるつもりです。合わないならすぐ手を引込めます。

東洋医療って、西洋医療とは発想が全然違って面白い。一般に○○ならこの薬っていうのが西洋医療に対して、東洋医療においては気や血といったものを陽と陰の関係から、薬草等を決めていく。同じ薬草でも、体形や年齢によって処方する漢方薬も異なるそうです。他にも気や血の流れをよくするためにヨガを行ったり。呼吸法についても、奥深く、劇団四季で用いられている練習法とか色々と調べてみた。あと、吹く楽器をしたら、肺が強くなるそう。

とにかく目標は、1.喘息を完治させる。2.総人らしさ追求

2013年8月15日木曜日

日本のお墓事情

今日は大谷本廟に納骨のため行ってきました。大谷本廟といえば、浄土真宗の開祖親鸞聖人を祀っているところです。他力本願、南無阿弥陀仏。ところで、納骨の前の儀式?の簡素さに少し違和感を覚えました。普通、畳の上で正座して、手を合わせるものであろうと思っていたのにも関わらず、まさかの椅子。そして、クーラーが効きすぎ。こんな中で祈りを捧げるのっておかしくないでしょうか。

他にも今までお寺のお坊さんはこの人みたいに決まっていて、そのお坊さんとの付き合いを云々としていましたが、多分こういうことはこれから少なくなるでしょう。他にも家に仏壇を置くこともなくなるでしょう。すべてが形式的なものになるのではないかなぁと思ったりします。

もうあの日から3年、時間が過ぎるのは早いです。頂いた言葉を思い出しつつこれから踏ん張っていかねば。可能性がある限り必ず勝つ!

2013年8月9日金曜日

内向型人間と外向型人間について

今日は内向型人間と外向型人間について、書こうと思います。内向型人間と外向型人間ってなんなのだと思われる方もいるかもしれませんね。内向(introvert)と外向(extrovert)という言葉は、スイスの精神科医・心理学者であったカール・グスタフ・ユングが初めて使った概念です。彼はユング心理学という心理学を用いて、「タイプ論」などで人間の傾向について詳述しています。

ところで皆さんは、内向型と外向型と聞いたときに何を思い浮かべますか?

内向型の特徴としては、

・関心が内に向かい主観的
・孤独で外部の世界から身を守る。
・自分の考えを表現するのが下手。
・自信が弱い。
・他人に無干渉。
・他人がいると仕事ができない。
・仕事を引き受ける前に責任を感じる。
・存在感が強い。
・意外に頑固。

などあげるときりがないですが、大きく言うと内向きなイメージです。

一方で外向型の特徴としては、
・関心が外に向かい客観的。
・社交的で自分の殻に閉じこもらない。
・自己表現が得意。
・自信が強い。
・他人に自分と同じ行動を要求しがち。
・他人といたほうが仕事ができる。
・責任を第二にしてもチャンスは逃さない。
・意外に存在感が薄い。
・周りに流されやすい。

など、社交的なイメージでしょうか。

ここからわかるように、内向型人間と外向型人間は対称的な性格の持ち主であることが分かると思います。勿論、人間ですから、「お前は内向型人間だ」っていう風にぶった切ることは出来ません。あくまで、傾向の話ですから、人間である以上、どちらかしか持っていないということはないでしょう。ただ、自分はこちらに近いかなというものが見えるだけのように感じます。

ただし、必ずしもこの傾向に当てはまるとは限りません。内向と外向を分ける大きな違いは、自分の中の精神的なエネルギーであるリビドーが自分に向かっているか、外に向かっているかです。そのため、一見内向的に見える人でも、他人のことをすごく気にしているならば、外向型ということが出来ます。


さて、私たちの社会はどちらの為に作られているでしょうか?
おそらく、社会的に理想視されているのは後者ではないでしょうか?

例えば、学校を考えてみましょう。学校の先生は生徒に対して挨拶することを求めます。体育の時間にはしっかりと声を掛け合って、チームワークをうまく形成できる子が高く評価されます。就職活動においても同様でしょう。面接のときには、人とうまくコミュニケーションをとれる社交的な人間の方が、そうでない人間よりも評価が高くなります。

要するに、私たちの社会では外向型人間の為に作られているといっても過言ではないでしょう。子供の時から外向型であることを親は子供に強く要求して、私たちは外向型人間至上主義の価値観の中で生きていかざるをえません。もしも、自分の子供が友達とうまく遊べていなければ、うちの子は大丈夫なのだろうかと親は心配します。そして、そうした子供たちに対して、強く仲間に入ることを求めます。

でも、これは内向型の傾向を持っている人にとっては大変な苦痛です。無理やり他者に合わせようというのは本当に難しいです。

私自身、どちらかというと内向的であるとは思うのですが、子供の時から、この性格から色んな人から色んなことを言われてきました。「もっと他人に対して愛想よく振る舞いなさい」とか、「黙ってばっかりいるのはやめなさい。」など。他にも、会話にうまく入るのが得意ではなかった私にとって、学校は少し苦痛でした。これだとダメなんだと知らぬ間に洗脳(笑)されて、私自身色々と変えてきた。無理やり演じるといいますか、無理やり社交的な自分を作り出してきました。

こうやって、無理に捻じ曲げてきたわけでありますが、曲げたら曲げたで、また新たな問題が生じます。どういうことかと言いますと、軽んじられる。

よくしゃべる人って、おそらくこのようにとらえられちゃうのではないでしょうか?余りにべらべらと喋ってしまうとどうしても、ボロが出てしまいます。話が長くなればなるほど論理に矛盾が生じやすくなったりしてしまいます。軽んじられやすくなる。

その反面、あまり喋らなければ、物腰が良いとか、落ち着きがあると言われます。また、一つの言葉に重みが出ます。もちろん、こういう人たちは、あまり議論に参加していないとも受け入れられてしまいかねないので、そうした点で批判を受けてしまうかもしれません。

要はどちらであれ、いいところがあり、悪いところもある。無理やり外向的な性格を押し付けたからと言って、本当にずっとプラスになりえないわけです。

社会全体がそうした内向型の人たちを追いやっているように思えるので、今後少しでも、そうした内向的な人たちの性格も大切にしないとダメだよって雰囲気を作り出さないといけないのではないかと思います。









2013年8月3日土曜日

自分の『鳥かご』から飛び立ちなさい

英語のプレゼンの授業でお世話になった教授から、今日の夕方1冊の本を頂き、今完読しました。久しぶりに、こんな短時間で1冊を読み終えた気がします。この本を読んで、新たにしようか迷っていたことを実践しようと思えました

その本は『自分の小さな「鳥かご」から飛び立ちなさい』(河合江理子著、ダイヤモンド社、2013)という本です。著者は、ハーバードを出た後、マッキンゼーやINSERD、OECDなどで働かれ、この本はその海外で働かれた経験、またプレゼンや英語の勉強の仕方、交渉術など様々な観点から書かれていて、勉強になります。是非買われて読んでみてください!


アメリカ人にとっては、とにかく何でもいいから喋れみたいな、それで認められようとする社会だそうです。でも、よく聞くと、聞き方の言い回しを変えたり、本質的なことでなくても質問するそうです。日本だったら、そうした的外れなことを言ってはいけない雰囲気になっていて、逆にあまり発言しない。でも、それだとアメリカでは認められないって。時に疑問に思います。よくしゃべる人が本当にいいのか、あまり喋らない方がいいのか。Susan CainのThe Power of Introverts in a World that can't stop talkingという本によると、時と場合による。あまり喋らないようなグループならその時のリーダーはお喋りの人がよくて、グループがお喋りばっかりの時は内向的な人の方がリーダーに向くって。しかし、外向性を会社・企業・学校では絶対視する傾向がある気がします。そうした価値観を無理やり押し付けるのもおかしいです。自分の考えをしっかりと発信できる人も大切だけれども、逆にそうじゃないところで良さを引き出せることもあるのではないかと思ったりします。どんな人も無理やりそれに合わせなくてもいいんじゃないかって思ったりします。臨機応変に変えられるのが理想なのかもしれないです。

2013年8月2日金曜日

いい加減なことと真面目であること

いい加減であることと真面目であることについて、共有したいなと思います。
(敬語を使いたかったですが、少々入り乱れたことご容赦ください)

みなさんは、真面目ですか?いい加減ですか?

私は最近迷っていました。世の中いい加減であることがいいっていうような価値観をマスコミやドラマなどを通して、私たちは洗脳されてきたのではないかと私は思います。

私自身は高校までは、真面目にやってきました。
学校の先生が言われたことはきちんと守って、先生が求める理想な生徒というか、そういうものを演じてきました。
だから、別に面白くもなかったと思います。
別にクラスで人気だったわけでもなく、中心的になにかしたことも特になかったように思います。
でも、それだと何も目立たないというか、存在感がないというか、そんな感じで見られていたのではないかと思います。

当時はっていっても数年前の話ですが「のぶたをプロデゥース」とか「花盛りの君たちへ」、「ごくせん」など
「いかにも青春しています」みたいな学校をテーマにしたTVドラマが数多くやっていました。
そこでは、極端にいうと、いかにも教師に服従するのではなく、「自分たちの人生をエンジョイしようぜ」というか、
「いかにも青春してます」みたいな生き方がクローズアップされていて、
僕たちの世代もだいたいそのような中で、俺にしかない青春みたいなものを追い求めようとしていた人が
多いように思います。

そして、その中では真面目であることは、低く評価された。
真面目にコツコツとやる人っていうのは、面白みに欠けるとか、言われてきた。
私は後者であった。そこで、正しいことって、ふざけることなのかってどこかで思ったりして、
大学に入って、色々と真面目な自分とはおさらばしてやろうって思って、
サークルとかでいろいろと抜けたことをやってきました。
授業も休んでみたりとか、遅刻したりとか。
まぁ、それをして先生に怒られたことも何回かありましたが。
とりあえず、色々としてみた。

しかし、そうした生き方ってやっぱり反発を生みやすいってどこかで薄々と気づいていました。
私ふざけたりして、高校までで怒られたことは一切なく、
面白くなければ、普通で、しいて言えば勉強が出来るくらいだったように思います。
だから、自分のアイデンティティが何かわからなくなる。
でも、そうやって個性的というか、浮こうとすれば浮こうとした分だけ、
「それは違うくない」「おかしいんじゃない」みたいに言われる。
批判も多かったように思います。
勿論、人を動かす原動力にはなる。
物静かな人と議論をするときは、いかにも今自分が進めているなみたいな優越感というか、
そうしたものを感じる。
でも、どこかで反発というか、自分勝手というか、そうした一面があることは否めない。

こういう色々と前に出ようとする人間って本当に鬱陶しいと感じることが多々ある。
私自身そうだ。誰かが自分が前に出す人って、自分が動かしていると錯覚している。

確かに動かしているのはそうかもしれない。
しかし、実は意外とそういう自分だけではないということがわかる。

例え、あまりしゃべらない人であっても、作業するときは真剣にやってくれるし、
時にそうやって前にでしゃばる人よりも頑張っていることだって満更ある。


要するにウダウダと述べてきたのですが、
言いたいことは真面目な生き方を見直す時が来たのではないかと思います。

今まで、そうした滅茶苦茶な生き方がいいというような価値観を面倒くさがりやで怠惰な人間が
これは良いものだと、自分たちの価値観を肯定するために、メディアやマスコミ、ドラマなどを通じて、
無理やり広げ、「真面目な生き方=ダサい・うっとうしい」として、
そうした生き方を排除してきたように思います。

でも、これからの時代、おそらく価値観が変わってくるのではないかと思います。
昔は真面目な人間が比較的多かったように思います。
例えば、第2次世界大戦の時には命を懸けて国の為に尽くすような人が多かった。
そして、その後、高度経済成長を経て、みんな真剣に働いて、
いわゆる落ちこぼれというか、社会からのけ者にされていた怠惰な人が
自分たちの生き方は素晴らしいというか、そうした価値観を植え付け、
その一部の価値観に魅力を感じたのではないかと思えます。
そして、学校ではいい加減というか、不真面目というか、そうした人が
クラスの人気者であったりしたわけですが、
今はむしろ、真面目な生き方が見直されている時代であると思います。

少し論理的に飛躍があるかもしれないですが、
全体的に今優位で前者の価値観が大きなウエートを占めている中、
浮くのはどちらか。それは少数派の真面目グループ。
近々、パラダイムシフトが起きるのではないかと思います。
真面目な人が認められる社会に。

長々失礼しました。





8月1日八朔の日

今日は八朔について、見ていくことにします。

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦8月1日のことです。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからありました。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

京都東山区では舞妓や芸妓さんが、世話になっているお茶屋や芸事の師匠の宅へ挨拶をしにいくという風習があるようです。
熊本県では八朔祭りというものをやっており、この祭りは江戸時代中期から始まったとされ、田の神に感謝し、収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りです

八朔の時期には日ごろお世話になっている人に恩を感謝する意味で贈り物をします。
こうした贈り物の文化もなんかすたれてきているような気がします。
私の場合、モノを送って他人を幸せに出来るのかっ、押しつけがましいというか、あまり機械的過ぎて、
心がこもっていないと思う節があり、今まであまり好きではありませんでした。
親がそうやって、気持ちだからと言って、贈り物をしている姿が不思議でならなかった。
でも、実はそうした送るという行為の中にあなたのことを思っているっていうような
メッセージが込められているのではないかと思いました。

昔絵画でお世話になった先生など、お世話になった方に何か送りましょうか。
そうだ、お手紙をつけたらいいんだ!そしたら、押しつけがましいなんてことはないですよね。

2013年8月1日木曜日

次の目標

何か大きな目標を追い求めたい。
受験の時のあの感覚をもう一度って。

ふとポストをのぞいたら、京都マラソンの募集が。。。
でも、今の僕にそんなこと出来るのか。
今まで、運動を真剣にやることがなかった人間である。
ぜんそくにより発達期において、運動をすることが出来ず、
体力では少し問題がある自分に。

いや、出来ないことはない。
受験の時もそうだった。
こんな大学受かるわけないじゃんって何回も言われて。
でも、必死でやったら、周囲の期待に反して合格できた。
この前の英語のプレゼンも感覚を掴めたらかなり変化した。

それにスポーツに関して優秀な教授がうちの学部には揃っている。
恵まれた環境にいるわけだ。
その先生から多くのことを習ったけれど、実践に移さないと、
知識のままで、教養ではない。

出来ないって決めつけたら、絶対できない。
出来るものもできなくなる。

可能性を信じれない人は嫌いだ。
でも、世の中、可能性を信じようとするどころか、
冷やかな目で見る人の方が多い。
一度、行動を起こしたら、変えられる。
これは僕のやりたい方向と違うなって思うと終わりだけど。

もし達成できれば、
人ってこんなに変われるんだって示すことが出来る。
多くの人に夢や希望を与えることができるんじゃないか?

よし、決めた。エントリーしよう!
そして、今やっているエアロビクス・インターバル・トレーニングの時間を増やしてみよう!あと、教授にアドバイスを頂こう。

2013年7月31日水曜日

目に見えない力

 観葉植物を置いて1か月持ちました。以前はユーカリを家で育てていたものの枯らしてしまい。でも、今育てているブライダルベールとプミラは非常に元気よく育っています!
 植物って生きているなという体験をしたことがあります。水をあげていなくて、夜見たら萎れていました。そこで、声をいっぱいかけてあげると不思議なことに植物は次の日すごく元気に回復していました。
 ということは、植物も言葉がわかるということなのか。想いって伝わるものなのかと思うこのごろです。
 そんなこといったら、そんなことあるはずがないっていう人がいつかもしれないですが、そんな目に見えない力ってどこかで働いていると思います。今って科学が進歩して、昔にみられるような超越的な神様みたいな存在がないがしろにされました。でも、昔はすべての基準がそうした目に見えない力で支えられていたのではないかと思います。科学技術が発達していなかった時代に、地震が起きた時、人々が考えるのは神様が私たち人間の行いに怒ってこのような罰をお与えになったって考えていました。今なら、活断層が…云々みたいに理論に基づいてお話がなされます。しかし、その理論が正しいという保障がどこにあるのでしょうか。ひょっとしたら虚構ではないかと捉えるのが哲学者です。
 さて、それはさておき、私たちは目に見えない力というものを敬うことが必要なのではないかと思います。昔なら「神様が見ているから、そんな悪いことしたらダメだ。天罰を下すよ」みたいに脅すことで、子供の頃から目に見えない力の存在について、どこかで意識してきたと思います。
 どうして意識しないといけないのか。それはこれが悪いことをすることに対して抑止的な効果があると思えるからです。一種の道徳というか、これを小さいうちから意識することで、自分さえよければいいや、とか、他人を侮辱しようとか、そんな思いが生じても、それを抑止できるのではないかと考えられます。
 少し意識してみてはどうでしょうか?これは宗教どうこうというよりは、日本人として昔から続く文化というか意識というか、すべてのものに魂があるんだというアニミズムに象徴される自然観みたいなもの。

2013年7月27日土曜日

言葉遣いについて

今日は、物事の捉え方ということについて皆さんと考えていきたいと思います。
哲学的には「世界は信念のネットワークである」とも言われるように、
私たちは世界に対して様々な認識を持っています。
でもそれは事後的に各々が条件づけたものであるから、
世界にはその人の数だけの考え方や捉え方があります。
哲学的には全体主義すなわちholismっていう風に言います。

っていうことは、世の中には絶対的な物事のとらえ方など存在しないわけであって、
物事の善悪っていうのはずばり、その時の多数決の原理において、
いいか悪いかが変わってくると言えます。

ということは私たちがどのように世界を認知するかによって、
物事の捉え方は変わってくるのではないかと思うのです。
つまり、ネガティブに思えることをいかにしてポジティブに捉えることが出来るかということが
大切であると言い換えてもいいでしょう。

だから、何か不安なことが起きたり嫌なことがあったら、
無理やり思い込みによってポジティブにとらえていったらいくことが大切であるということです。

具体的には以下のような表現を皆さんなら、どうしたらいいと思いますか?

仲が悪い
自己中心的
だらしない
似合わない
薄汚れた


⇒⇒
意見が異なる
強い意思を持っている
おおらか、物事にとらわれない
雰囲気が逢わない
歴史的風格をかんじさせる


こんなかんじで、物事ってプラスにとらえるポジティブ思考って
ものすごく大切なのではないかということであります。


第一、人間なんだから意見が完全に一致するなんてありえないわけで、
だから、間違ったと思っても、本当にそうだったのか?
捉え方を変えたらって考えることが大切なんだと思います。

とはいっても過度にやりすぎると、傲慢とか思われかねないので、
どうしたらよかったかというのを考えることは必要でしょうね。

どこかの母親が「うちの子全然勉強しないのよ。友達と外であそんでばっか」って愚痴っていたら、
「外でのびのび遊んでいて、友達いっぱいでいいじゃん!きっと、その社交的な子供さんはコミュニケーション能力が高くなるだろうね」みたいに返してあげたらいいんじゃないかと思うこのごろです。
正直、勉強が出来る=成功なんてありえない話ですので。

要するに僕が言いたいことは捉われるなってこと。相手の言葉そのものに絶対性なんてないんだから、あまりに落ち込んでしまい、布団にこもるんじゃなくて、捉え方を変えて、自分の中で再解釈しようってことです。

今日はこんなところで終わります!


ブログをはじめました!

ブログを始めました、古都大学総合人間学部の3回生の学生です。
少し思ったことを挙げていこうと思いますので、皆さんよろしくお願いします!

ここでのコメントが何か皆さんにプラスになったら幸いです!
宜しくお願い致します